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0430

たしか三月頃から自宅近くを訪れるようになったウグイス、毎日のように早朝からけたたましい程の鳴き声を響かせているのに、一向に上達する気配がない…姿が見えないからはっきりとは分からないけど、いつも同じ個体なのかな。今日の夕方も一生懸命鳴いてたものの、未だに「ホーホケキョ」って言えてない。大体いつも最後の方でごたつくのを必死でごまかしているように聞こえる。だけどそれも愛嬌というか、つい応援したくなってしまうような個性を感じる。あのひとも下手なりにがんばっているのだし私もがんばらないとな、などと思うこともある。

0429

最近努めて「世間」の人々を眺めるようになった。その輪の中に入るのはまだ難しく思えて、あまり上手に出来ていない。ただ、そうして周りの様子をよく観察してみると、自分はひどく凡庸な人間だなと感じるようになった。そこにはある種の安心感と、自分の存在のつまらなさをほんの少し悲しく思う気持ちとが共存している。外に目を向けてその中での自分の立ち位置を探り、自分が大勢の人々の中に埋もれてかき消されてしまう程度の一個の人間に過ぎないことに気づくのは、私にとってよい傾向だと言える。「自分は特別優れている」と思うのも、「特別劣っている」と思うのも、どちらも認知に歪みがあるという点では共通している。私は後者の念に苛まれてきた。でも、冷静に周りを見渡せば、劣等意識は過度な自意識が生んだ不合理な観念でしかないことに気づけるはず。しっかり目を開き、よく観察すること。

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今日は一歩前に踏み出すことができたから、いい一日だったということにしよう。

0428

朝の散歩に出始めてから二週間。見違えるような変化はないものの、全般的によい影響を与えてくれているのではないかと思う。調子が悪いなと思う日でも、特に精神的な面での不安定さを感じにくくなっている気がする。今の私にちょうどいい方法だったのかもしれない。さらにもう一週間、続けてみよう。

0427

今日は何も書く気になれなかった。でも、今ここで空白を作ると何かに負けてしまう気がしたから、これだけでも書いておこうと思い直した。明日をよい一日にできますように。

0426

計画的に行動できるようになるための努力は必要だけど、未来のことばかり考えすぎて今の行動が鈍ってしまっては意味がない。計画することと、ありもしない未来を想像することは別物。

0425

苦手意識があってすぐに疲労感を覚えていたものでも、何度も経験しているうちに慣れて以前よりうまく付き合えるようになったりする。すごく当たり前のことだけど、繰り返せば慣れる。その実感を積み重ねていけるようにしたい。

0424

アプリの活用方法、思いついたかも。試してみよう。

0423

0422

ちょっと冷静に考えればありえそうにないことも可能性の一つとしてカウントしてしまい、その詳細を想像してみるのに時間を割かれてしまっている。そのせいでスピードが遅くなる。可能性や選択肢を上手に効率よく絞り込むことができない。これが苦手だってことは前から分かっていたことだし、今すぐ変えられるものでもないと思う。下手なりにがんばっているのだから、のろまな自分を責めないであげてほしい。どんなに歩みが遅くてもちゃんと少しずつ進んでいるはずだから、匙を投げずに信じてあげてほしい。

0421

今日はあまり考えがまとまらず、やや停滞気味の一日だった。でも、ここでちゃぶ台をひっくり返してはだめだ。今日のところは、もうおしまい。明日は気持ちを切り替えて、これまでの続きを進める。最近元気が出てきたからと言って、昨日は少し調子に乗りすぎたようだ。一日の上限を超えて動くと、次の日に響く。その辺のバランス感覚も鍛えよう。

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TITLE Swan Lake
NAMES Van Vechten, Carl, 1880-1964 (Photographer)
DATES / ORIGIN Date Created: 1941-04-21
(THE NEW YORK PUBLIC LIBRARY DIGITAL COLLECTIONS より)

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雑談の中で偶然話に出てきたので調べてみたら、Volareってオリジナルはイタリアの曲だったんだ。知らなかった。(参照:ビールCM曲の大定番!「麒麟淡麗」TV-CM曲は?

↓はCMソングにも起用されていた Gipsy Kingsのスペイン語バージョン。

↓は1958年にDomenico Modugnoが発表したオリジナル曲「Nel blu dipinto di blu(青に染まった青の中)」。

元となる曲が同じでも、ここまで趣が変わるものなのか。それぞれの言語の特色やお国柄がよく現れている気もして、面白い。最近カバーを聴いて曲の印象がガラリと変わるという経験が多々あって、楽曲を自分のものにして歌い切るミュージシャンの力に感服させられている。

↓はBrandi CarlileによるTake Me Home, Country Roads、素晴らしい。

0420

起床時間を一時間早めて一週間。ちょうどタイミングよく朝の散歩を推奨する文章も見かけたので、最近は日の出も早くなってきたことだし、ついでに朝食前に散歩に出るようになった。これがよかったのか、ここ一週間は何となく心身の調子がいい気がする(眠れなかった日の翌日は除く)。昼食後の眠気や身体のだるさを感じることも減った。睡眠の質が改善されているのかは、まだよく分からない。同じ散歩でもタイミング次第で実感が変わるものなんだな。これを習慣にできるかは不透明だけど、まずはあともう一週間、続けてみたい。

0419

昨日見た話題もそうだけど、広く人間関係について考え事をしているとき、関わり方やその深さを分類せずに思いを巡らせているから、考えがまとまらず一向に答えが見えてこないのではないかと感じた。ブロンフェンブレンナーの生態学的システム理論(発達生態学/最新 心理学事典)やコンボイ・モデル(ソーシャル・ネットワーク/最新 心理学事典)などがヒントになるかもしれない。これらを参考にしつつ、もう少し整理してみた方がよさそうだ。

「知識」は切実に何かを知りたいと感じたとき、すぐに取り出して利用するためにこそ、備えておくべきものなのだな。何だか今、すごく反省した。大学で思うように勉強をがんばれなくて、その理由をあれこれ自分に説明しようとしてきたけど、結局私は単に努力を怠っただけの劣等生だったのかもしれない。勉強の出来不出来を唯一のものさしとして、それで自分の価値を測られて「劣等生」の烙印を押されるのが怖くて仕方がなかったから、勉強から逃げていただけなのかもしれない。卒業した後に気づくところがまた、我ながら愚か者だな。それが自分の学力と器の限界だったのだろう。今はただ、過去を甘んじて受け入れるより他ない。何かを改めるのに遅すぎることはないと信じ、これからは「知識」の吸収と利用に対する態度を根本から見直していきたいと思う。

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どうしても見るのが怖くて、ずっと触れることができていなかった書類。今日やっと手をつけることができた。怖くて仕方がないと思うものでも、蓋を開けてしまいさえすれば、なんてことなかったりする。むしろその方が多いだろう。私に必要なのは、蓋を開けてみるとき、その一瞬の勇気を奮い立たせる術を学ぶことだ。怖いものは、本当はそんなに怖くないはずだから。何はともあれ、一つ怖いものを克服できてよかったね。おめでとう。

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特に目標を立てたわけではなかったものの、今のところ毎日書き続けている。これは習慣化して継続した方がいいのだろうか。とはいえ義務感に縛られてしまっては本末転倒なので、本当に書くことがない・書きたくないと思う日が来たら、また考えてみよう。

0418

以下は先月見かけたカズオ・イシグロさんへのインタビュー記事に出てくる一節。

ブレグジットにしても、トランプ主義の台頭にしても、中には半分ジョークを交えながら、「この世には本当にバカがいるもんだ」と怒る人もいます。しかし、私たちはその先にあるものを考えないといけません。そこで起こっている重要なことに気がつかないといけないのです。

俗に言うリベラルアーツ系、あるいはインテリ系の人々は、実はとても狭い世界の中で暮らしています。東京からパリ、ロサンゼルスなどを飛び回ってあたかも国際的に暮らしていると思いがちですが、実はどこへ行っても自分と似たような人たちとしか会っていないのです。

私は最近妻とよく、地域を超える「横の旅行」ではなく、同じ通りに住んでいる人がどういう人かをもっと深く知る「縦の旅行」が私たちには必要なのではないか、と話しています。自分の近くに住んでいる人でさえ、私とはまったく違う世界に住んでいることがあり、そういう人たちのことこそ知るべきなのです。
カズオ・イシグロ語る「感情優先社会」の危うさ 2021/03/04/東洋経済オンラインより)

恐らくここでは自戒の念を込めて「リベラルアーツ系、あるいはインテリ系の人々」の皮肉な現状に言及しておられるのだろうけれど、「同じ通りに住んでいる人」の世界を全く知らないという事態に直面している人は、世界中にたくさんいるのではないかと思う。私自身もその一人だ。

上記を踏まえて日常を省みたとき、趣味一つとっても、自分の好きなものを先鋭化させる(好きな分野を限りなく追求して最も心地よい世界に身を置く)のは、自分や自分を取り巻く世界にとって本当に望ましいことなのかと疑問に思えてくる。例えば、昨日PommeのCeux qui rêventを聞いたからか、YouTubeはすかさず私に↓をおすすめしてくれた。

たしかにアーティストの雰囲気や曲調は、いかにも私が好きになりそうなものだ。実際にすてきだなと思う。雑な書き方をすれば、Pommeを聴く人がCécile Corbelも好むであろうことを、パーソナライズのアルゴリズムは知っているのだろう。こうしたことは音楽に限らず、様々なエンタメコンテンツで起こりうることだ。好きなもので満たされるならそれでいいと開き直る気持ちも少しあるし、他方で、そうやって与えられた「好みで塗り固めた世界」で喜んでいる自分が滑稽に思えてくることもある。(100分de名著つながりで思い出したけど)これはブルデューの主著『ディスタンクシオン』での議論に関わる話でもあるのかもしれない。

こうした結果を踏まえてブルデューは言っています。
「眼」とは歴史の産物であり、それは教育によって再生産される。
眼は歴史の産物である 2021.01.08/NHKテキストviewより)

脱線しすぎた。ここで書きたかったのは、(イシグロさんの言葉を借りるなら)私は自ら「縦の旅行」に出る努力をしなければ、本来最も身近にいるはずの他者との共感可能性すら失っていく恐れがあるということだ。それは私自身の生活にとっても、私が身を置くコミュニティにとっても、望ましいことではないと思う。だからこそ、普段から知らない人とコミュニケーションをとる努力をしたい。道徳的な要請というよりも私自身の願いや望みの一部として、それを大事にしたい。格差や分断が叫ばれる現代において「誰とでもそれなりに、にこやかに会話ができる」ことは、重要なスキルの一つだと言えるのかもしれない。

0417

知人のお子さん(中学生になったばかり)のほっこりエピソードを耳にして、あまりの純朴さに心打たれ、思わず笑みがこぼれた。彼の心根が挫かれることのない世の中であってほしい。

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Pommeバージョンがずっと頭の中で流れ続けていて悪酔いした気がする…
気分転換に映画でも見ようかなと思っても、最近は何となく観る気になれないことが多い。以前から好きな作品も、きっと好きになるだろうなと感じる作品も、つい避けたくなってしまう。今は現実と向き合わなきゃって思いが強いから、一時的に映画と距離を置きたくなっているのかな。それとも、映画そのものに対する関心が薄れつつあるのか…以前全く本を読めなくなった時期もあったし、あまり深刻に捉えずに様子を見ることにしよう。

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本家

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昨晩は見事に眠れなかった。以前にも増して弱くなったかもしれない…長期間摂取していないと、より過敏になったりするんだろうか?いずれにせよ心身の健康と心穏やかな一日を望むなら、やはりカフェインは避けるに越したことはない。いい教訓になった。(後悔はしていない。)

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スピノザのこと、ほんとはもっと色々整理して書き出して考えたいことがたくさんある。だけど、全部一気に片付けようとしても力不足でなかなか終わりが見えてこない。それに今は本来そんなことをしている場合ではないので、今日みたいに小分けにして少しずつアウトプットしていきたいと思う。この日記形式だと、それがしやすい。ハードルを下げることって大事だな…

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真理の獲得と主体の変容との関係について
1.体験(発見・気づき)→知識による裏付け→真理の獲得
2.立証済みの知識の受領→体験を通じた理解→真理の獲得

私が受けてきた教育では、膨大な知識が次から次へと一方的に教授され、各々の知識に対して十分な体験を経る間もないままに、知識を飲み込むことに忙殺されていた。そのため、知識は増えてゆくのに事の本質や勘所(真理)、個々の知識をつなぎ合わせて総体的に把握する視点などは常に見逃し続けているという感覚が蓄積されていた。そのことへの違和感がピークに達したとき、ついに私はそれまで手にした知識を残らずすべて捨て去るという暴挙に出るに至ってしまった。

これらの経験が(不完全な形の)2に対する疑念と深い反省を思い起こさせ、今も私を強く1へと駆り立てる。しかし1には、非効率的でスピードが遅くなりやすいという難点がある。2のルート、つまりまず知識を得て後から体験を通じて真の理解を得ることの方が適した場面だって、いくらでもあるはずだ。私はそろそろ2の有用性を再認識する必要がある。

ところで、体験を伴わない〈知識の理解→真理の獲得〉はありうるのか。他人のことは分からないけれど、少なくとも私にとってはありえないことだ。このあたりスピノザが大事そうとは思いつつ、『エチカ』は私の理解力では咀嚼が厳しい気がして、まだ挑戦できていない。ここでは國分功一郎さんによる『エチカ』解説の一部を引用しておこう。

 デカルトとスピノザの真理観の違いに注目した哲学者としてミシェル・フーコーがいます。フーコーは『主体の解釈学』という講義録の中で、かつて真理は体験の対象であり、それにアクセスするためには主体の変容が必要とされていたと指摘しています。ある真理に到達するためには、主体が変容を遂げ、いわばレベルアップしなければならない。そのレベルアップを経てはじめてその真理に到達できる。
 この考え方が決定的に変わったのが十七世紀であり、フーコーはその転換点を「デカルト的契機」と呼んでいます。デカルト以降、真理は主体の変容を必要としない、単なる認識の対象になってしまったというのです。フーコーはしかし、十七世紀には一人例外がいて、それがスピノザだと言っています。スピノザには、真理の獲得のためには主体の変容が必要だという考え方が残っているというわけです。これは実に鋭い指摘です。
國分功一郎「スピノザ『エチカ』」『NHK 100分 de 名著 2018年12月』 NHK出版、pp.108-109)

私が大学に馴染めなかった理由も、この辺が関係している気がする。私はデカルト的な真理観とあまり仲良くできない。まずは中古を手に入れて、少しずつめくってみよう。そして困ったときは、G.ドゥルーズの『スピノザ』に助けてもらおう。『エチカ』は死ぬまでに通読したい本の一つだ。

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「寂しいと思うのは自然なこと。寂しくてもいい」と認めてしまったら、不思議とあまり寂しさを感じなくなった。これは(できるだけ早く消えてほしいと願う)様々な感情に応用可能だと思った。湧き出る不安や恐れを最もスムーズに解消するためには、まずはそれらをつぶさに観察して完全に認めてしまうこと。マイナス感情を抱いてしまう自分を責めないこと。そうすれば、嫌な気分は和らいで無理なく自然に消えてゆく。過去にも何度も感じてきたように、嫌な感情を抱くことよりも、むしろそれ以上に、その感情を抱くことを恥じて拒否する気持ちの方が、遥かにメンタルに悪影響を及ぼすのではないかと思う。ネガティブモードに陥ったとき、このことを思い出せるようにしたい。

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胃弱が進むと同時にカフェインが苦手らしいことに気づいて以来、好きだったコーヒーを断って久しい。コーヒーを含む飲料にも一切手を付けなくなった。それが今日はついうっかり手が伸びて、ずっと飲んでいなかったソイラテを口に運んだ。一口目の幸福感ときたら…少し後が怖い(胃痛と不眠)けど、久しぶりに味わえて今すごく幸せだから、たまにはこんな日があってもいいのかなと思った。

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散歩中は音楽を聴かないようにしよう。その方がいい気がする。

0414

ここが大事な場所になりつつあるなら、もう少し人間らしく振る舞った方が良いのではないかと感じ始めていた。そこでまずはユーザー名を適当なアルファベット一文字にするのを辞め、今日はアイコンを変えた。気分屋ゆえにずっと玉虫色に頼ってばかりだったから、今回は腰を落ち着けたい。節操がないのは自分でも嫌だ。これで少しは血の通った場所に近づけたのではないかと思う。完全なる自己満足だけど、満足している。今はほんの小さなことでも、変化を大事にしたいから。

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一日のサイクルを一時間前倒ししてみよう。定着・習慣化できますように。

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「学習性無力感」とは、米国の心理学者マーティン・セリグマンが1967年に発表した概念で、抵抗することも回避することも困難なストレスに長期間さらされ続けると、そうした不快な状況下から逃れようとする自発的な行動すら起こらなくなる現象をいいます。セリグマンたちは犬を用いた実験によって、「自分が何をしても状況は変わらない」という思い=無力感が体験から学習されるものであることを発見しました。「学習性絶望感」や「学習性無気力」とも呼ばれ、一種の抑うつ状態や学業不振にいたるメカニズムの一つとしても注目されています。
(2014/3/17掲載)
出典『日本の人事部』/コトバンクより

学習性無力感、概念としては知っていたはずだけど、自分ごととして捉えたことはなかった。私はこの現象を体験していたのかもしれない。ただ、強いられた環境のせいというよりも、どちらかというと自滅的にそのような状況に陥っていた気がする。概念提唱者の著書『オプティミストはなぜ成功するか ーポジティブ心理学の父が教える楽観主義の身につけ方』の書評を見かけた。そこでの解説を信じるなら、上記のような私の解釈(悪い出来事の原因を自分個人に帰着させる)はペシミスト的だと言えそうだ。いつか改めて本を手にとる時間を設けたい。

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0412

「地道な努力を積み上げることにより、少しずつ段階的に進化・成長していく」タイプの自己像(物語)を失って久しい。関心はランダムに移り変わるし、何をやらせても中途半端で何事も成し遂げられないという感覚と自己評価が蓄積されつつあった。ここ数ヶ月は、少しずつそれを乗り越えようともがいてきた時期だったと思う。同じ場所をぐるぐる回り続けている気がするときも、私は何かしら変化(前進あるいは後退)の渦中にあるはずだし、長い目で見れば、それらは「段階的成長」に伴う過渡的混乱の一部と言えるかもしれない。個別の出来事の意味は、事後的に振り返ったときに初めて確定する場合もある。

何が言いたいかというと、自分の想定した計画が思うように進まなかったり、順序立てて物事を考えるのに疲れたりしても、すぐに投げ出してはならないということ。過去に経験した挫折を数え上げて、今まさに起こりつつある体験にまであえて挫折の可能性を想像しないこと。私は「地道な努力が続かない人間」ではない。自分を「地道な努力が続かない人間」だと思いたがる、そのセルフイメージこそが、私をそのような人間にしているだけなのだ。スモールステップを積み重ねて目標に近づいていく努力のあり方を、諦めてはならない。

眠くなると歯切れの悪い文章になってしまう…とりあえず書きたいことは書けたと思うから、これでよしとしよう。

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書いたり話したりすると、自分がどんな現実から目を逸らしたがっているのかが浮き彫りになる。他人に自分の話をするのが億劫だと思うのは、そこで語られる内容の空虚さを自分自身が一番よくわかっているからだ。適当に取り繕った話しかできないことが情けなくて、だから話したくなくなるんだ。このところずっと、二年前に気づいた大事なことを忘れかけていたけれど、今日ようやく思い出せた気がする。

「(どうすればいいか)わからない」って言うのは、もう辞めよう。わからないのではなく、雑音にかき消されて聞こえづらくなっているだけ、枝葉末節にとらわれて見えにくくなっているだけだからだ。目の前の課題に対処するために随時考えを更新しようと努めるのは悪いことではない。ただ、いついかなる時も常に立ち返るべき場所は一つであることを、しかもその場所はいつも変わらず自分の目の前にあるのだということを、忘れてはならない。後ろめたいことを抱えて逃げるようにして、人目を避けてひっそり息を殺して生きるのは、もう嫌だって思っているはず。今こそ心の中のマルクス・アウレリウス帝を覚醒させるべきとき。私も応援しているから、がんばれ。

0411

会話の練習。何となく前向きになれないのはどうしてだろうと、ここ数日モヤモヤしていた。今やっと気づけたのは、その場限りの付き合いの人とどう接していいか分からないからだということ。これから先付き合いが続く想定が前提にあれば、まずは相手の性格や好みを把握しようと色々な質問を投げかけたくなるし、適度に自己開示もしようとがんばれる。だけど、ただその時々に用意した個別の話題について話をするだけとなると、途端に興味を失ってしまう。ほんの少しでも今後友人になる可能性が見えたら、もっと前のめりになれるかもしれない。でも、それすらなければ会話に意味を見いだせなくなってしまう。

別の言い方をすれば、私が人と接するときの一番の関心は「(お互いに無理なく過ごせるような)相手との適切な距離感を見極めること」にあって、会話の中身は二の次なのだろうと感じた。人物への興味が先立つから、話題を掘り下げることに集中しきれない。それに、興味関心を他人と共有したり語り合いたいといった願望が、全く湧いてこない。自分の状況や趣味について説明するのは面倒だという気持ちがまさる。先日可視化した目的に限れば努力する意義もある程度は認識できるけど、そこに割けるエネルギーは限られてくる。

一方的に話を聞くだけでいいなら楽しそうだけど、そういう場を設定するのは難しいかな…かといって今使っているアプリは友達づくりって雰囲気ではないし、結局今の状況で取り組めることではなかったのかもしれない。本筋でがんばるための補助輪になればとの思いがあったけれど、上手に活用するのは難しいものだな。

0410

空の青さも旬の野菜の味わいも、私を救わない。救わないけど、たまに支えてくれることはある。それ以上何を望むというのか。

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現状肯定と成長・改善欲の関係について。現在を否定的に捉えるとネガティブな自意識が邪魔をして思考や行動の健全性・生産性を低下させることになる。なので、できるだけ今の自分の「ありのまま」の姿を受け入れて認めるようにしたいと思っている。他方で、現状肯定は変化(成長や改善)に対する柔軟性を損なわせるのではないかという懸念がある。つまり、これまでの私は、何かをよりよい状態にすることへの意欲の源泉を現状不満足感に求めてきた。今に満足できないから、何かを変えたいと強く思う。だけど、この思考回路のままでは、現状を肯定する限り、私は現在をよりよく変化させる力を失うことになってしまう。

現状肯定と成長・改善欲を両立させることはできないのか。直感的にはできるはずだと信じたがっている自分がいるけれど、現実にある自分の行動を観察すると、その願望に反する事実が浮かび上がってくる。今の姿を認めつつ、同時に変化に対する前向きな意志を生み出し続けるには、どうすればいいんだろう。視点と発想をどのように変化させれば、矛盾なく両者を共存させることができるのか。

  ↓

問いの立て方が少し違っている気がしてきた。これは私が今解決したい問題の核心を突いていない。自分自身の明確な意思を持ってがんばりたいと思っている事柄に対しては、両者は何の矛盾もなく両立している。目指している場所から見下ろせば、現在の自分がどれほど至らない存在であるかはよくよく承知している。それでもたどり着きたい場所は変わらないのだから、私はただ今いる場所で自分にできることを精一杯がんばれば、それで良いのだと納得して動くことができる。平静な心で今の姿を認めながら、同時にがんばる意欲を失わずにいられる。

他方で、目下の課題は、本来がんばるべきことを十分にがんばれていないことにある。今を肯定するとがんばる気力が湧かず、逆にがんばろうとすると現在を否定して不満を見つけようとすることになり、結局ネガティブな感情が増えて思うようにがんばれない。「がんばらなければならない」を「がんばりたい」に変えられたらいいのだけど、それがどうにも難しい。

今書きながら思ったのは、がんばるべきことをがんばれないのは、その先に何があるのか、つまり目指している場所がはっきり見えていないからではないだろうか。だとすると解決の方向性としては、①目指している場所を明確にする、②目指している場所が見えなくてもがんばれるような(普段慣れている方法とは別の)やり方にシフトする、の二つが考えられる…?なんだかこんがらがってきた気がする。ちょっと一回落ち着いて、後でまた考え直そう。

0409

日常雑感を記すこと、思っていた以上に大事なのかもしれない。些細なことでも言葉にすると、目の前の現実により良く集中できるようになる気がする。近くに気の置けない友人が住んでいたら、こんな話をしたかったと思えることを書きたいな。

最近オニオングラタンスープもどきを作るのにハマっている。パンを入れると夕飯にはちょっと重そうだから、代わりにきざみ揚げを入れてみたら(邪道かもしれないけど)私にはちょうどよかった。少し手間がかかっても飴色になるまでじっくり炒めると、味わい深さが際立つ。新たまねぎが美味しい季節。

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会話の練習、目的は何か。
→異なる価値観、思考様式に触れてそれに自分を馴染ませること
→会話の中での気づきをヒントとして、自分の振る舞いを調整してゆくこと
   ↓
個人的な関心事の追求や趣味の共有は後回しにする。好きな対象を媒介として会話を広げるのは比較的容易なことだろうし、それは今の自分が最優先で取り組むべきこととは言い難い。

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『荘子』外物編に次のような言葉がある。
「筌は、魚を捕えるための道具である。魚を手に入れてしまえば、筌のことは忘れてしまうものだ。蹄は、兎を捕えるための道具である。兎を手に入れてしまえば、蹄のことは忘れてしまうものだ。言葉は、意味を捕えるための道具である。意味を捕えてしまえば、言葉には用がなくなるのだから、忘れてしまえばよい。
 私は、言葉を忘れることのできる人間を探し出して、ともに語りたいものである」
(中略)
 この荘子の筌蹄にたいするものとして、『楞厳経』に次のような言葉がみえる。
「もし指で月をさして人に示すならば、その人は指によって月を見るであろう。だが、もしその人が指を見て『これが月だ』と思うようなことがあれば、その人は月そのものを忘れるばかりでなく、指をも忘れることになろう」
 月は真理であり、指は月のありかをしめす手段であり、言葉である。言葉そのものに真理を求めるのは、月を見ないで指を見ることになる。もしそうなれば、指はかえって月を見ることの妨げとなる可能性がある。禅宗で「断指」を説くのは、このためにほかならない。
森三樹三郎(1994)『老子・荘子』(講談社学術文庫)講談社、pp.403-405)

私は時折、筌蹄としての言葉、月を指す指に囚われすぎてしまう。私は人から褒められるような美文を書くことを目指しているのではない。目的は常に、魚や兎を捕えること、月のありかをしめすことにある。月を見ることさえできれば、指は必要なくなるのだ。指に固執すると、月のありかを見失いかねない。このことを忘れずにいたい。

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会話、前後の疲労感は相変わらず。余計なことを考えてしまうから疲れる。考える余裕を奪って別の予定で埋めてしまえば、疲れも感じなくなるのだろうか。それから、しゃべるタイミングがかぶってしまうことが多かった。話の流れとテンポを見極めて合いの手を入れたつもりでも、何度か重なることがあった。対面で相手の表情やしぐさを読み取ることができれば、こうしたズレは生じなかったのか?

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気持ちの供養

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この場所の謎の安心感。Twitter並の気軽さで字数を気にせずに書けるし、投稿順序が微妙に改変されるようなこともなく、必要なときには読み返しやすい。noteではどうでもいいことを投稿したくないという気持ちが強すぎて、これまで書けずにいたことも多かったのかもしれない。それに、何度も新規作成して自分の投稿が頻繁にホーム画面のタイムラインに表示されるのは嫌だったので、このような使い方が私にはちょうどいいのかなと思った。

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寂しさについて。数年前まで、一人でいて寂しいとか人恋しいなどと感じることはほとんどなかった。なんと言えばよいのか、多分それどころではなかったのだろう。自分の認識できる範囲に楽しげな雰囲気を放つ人の輪があって、しかも自分は決してその一員ではないことをまざまざと自覚するとき、寂しさは生まれる。なので、そもそも人の輪を自分の意識から完全に排除してしまえば、寂しいという感情は湧いてこない。私はそのような状態を半ば意図して作り上げていたのだろう。

自分が望みさえすれば、以前から馴染みのあるその世界に浸っているのはごく簡単なことだ。外界の情報を可能な限りシャットアウトし、自分の周りをひたすら心地よいものだけで取り囲む。けれど私は少しずつ、あえて自分の知らない世界にある人の輪に目を向けるようになった。そうすると、寂しさを覚えるようになった。最初は以前より自立心が衰えたのかと疑ったけれど、そうではないと思う。私は自分の城に閉じこもって手にした脆い強さより、人の輪の中やその周辺に身を置き、時には寂しさも抱えながら、もがき生きる弱さを選びたかったのだ。だから、寂しくて心細いと感じる時間を持つようになったことを恥じるつもりはない。それはむしろ、喜ぶべきことであるとさえ思う。

有名すぎてあまり引用したくないけれど、『イントゥ・ザ・ワイルド』の中で主人公が手帳に書き残した言葉として登場する“Happiness only real when shared”は、今もこれからもずっと心に残り続けると思う。私は主人公の生き様を鼻で笑う気には、決してなれない。

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おしゃべりの練習。相手がせっかく私の知らない世界の話を広げてくれても、前提知識が乏しすぎるとその話を掘り下げるための質問ができない。浅くてもいいからとりあえず知識に触れておくという態度も大事なのだと痛感した。こういうのも一つの「教養」なのかな。私は理科系の知識が頭から抜け落ちて今や未就学児レベルな気がするので、とりあえず雑誌などを手に取ってみたいと思った。

0406

こんな場所もあっていいのかなとふと思い立ってとりあえず書いてみたけど、私の書いてることってほとんどこの記事一本に収めてしまえるのでは?という気がしてきた。早くも棲み分けに迷いつつある。うまく活用できなかったときは、また方向性を見直してみよう。今日は頭の中が騒がしい。
  ↓
〈新規作成〉
・ポジティブな出来事や考え(好き、喜び、嬉しさ、楽しさ)で、それを誰かと分かち合えたらいいなと思う内容
・誰かの役に立つこともあるかもしれないと思える内容
〈雑記録〉
・不安定期の雑念、もやもや、吐き出したいこと
・自分語り的な内容、自分の中で整理したいこと

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私はこの世に生れた以上何かしなければならん、といって何をして好いか少しも見当がつかない。私はちょうど霧の中に閉じ込められた孤独の人間のように立ち竦んでしまったのです。
(中略)
私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。彼ら何者ぞやと気慨が出ました。今まで茫然と自失していた私に、ここに立って、この道からこう行かなければならないと指図をしてくれたものは実にこの自我本位の四字なのであります。
(中略)
その時私の不安は全く消えました。私は軽快な心をもって陰欝な倫敦を眺めたのです。比喩で申すと、私は多年の間懊悩した結果ようやく自分の鶴嘴をがちりと鉱脈に掘り当てたような気がしたのです。
(中略)
著作的事業としては、失敗に終りましたけれども、その時確かに握った自己が主で、他は賓であるという信念は、今日の私に非常の自信と安心を与えてくれました。
(中略)
ああここにおれの進むべき道があった! ようやく掘り当てた! こういう感投詞を心の底から叫び出される時、あなたがたは始めて心を安んずる事ができるのでしょう。
(夏目漱石『私の個人主義』より)

数年前、ついに鉱脈を掘り当てたという確信を抱いた。たしかにその瞬間、はじめて自信と安心を与えられた気がした。しかし、その自信と安心は長続きはしなかった。なぜか。今も相変わらず霧の中に閉じ込められたままのような気がしてきて、そもそも鉱脈など掘り当ててはいなかったのではないかという疑いも生じ始めていた。だからいま一度これを読み返してみようという気になった。

改めて彼の言葉を追ってみると、自己本位という言葉を手にしたことで不安を払拭し軽快な心を得た後も、彼は衣食のために奔走しながら神経衰弱に罹り、自らの著した文学論については「失敗の亡骸」と評している。当然のことながら、鉱脈を掘り当てたからと言っていきなり人生がバラ色になるわけではないのだ。私はこの点で何か大事なことを大いに履き違えていたような気がする。「鶴嘴で掘り当てた鉱脈」とはむしろ、あらゆる希望が絶たれたかに見える極限状態に置かれたとき、それでも尚自らの生きる力を奮い立たせるために用意された、最後の砦のようなものなのかもしれない。

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最近「コミュニケーションって難しい」みたいなことばかり書いてる気がして、自分でも嫌になってきた。難しくしてるのは、他ならぬ私自身なのだと思う。多少噛み合ってない気がしても、何となくうまくいっていればそれで十分って場面もたくさんあるはず。挨拶と「ありがとう」や「ごめんなさい」が言えて、いがみ合ったりせずに同じ空間を共有できているのであれば、とりあえずそれで良しとしたっていいじゃないか。自分でコミュニケーションのハードルを上げすぎないようにしたい。

0405

今日の空の青、一番好きな色合いだった。今の季節特有の色なのだろうか。うっすらと白さも感じられる、強すぎない柔らかな青。とりわけ、山の稜線を境としたコントラストが美しい。これらを満足に表現する言葉を持たないことが、もどかしい。三流ポエムに陥らずにこの感動を発散するには、どうすればいいんだろう。記憶に留めておきたくても、きっといつか消えてしまう。

04☓☓

「子どもの頃を思い出してみなよ、あなたは根っからの楽天家じゃない。もしそう思えないなら、ちょっと忘れてしまっているだけ。何も毎日ハッピーでいなきゃってことはない。でもね、落ち込んでいるときの自分を『本当の自分』だなんて思ったらだめだよ。そういうときは、思い出すんだよ」