190916 古本市


日々の生活を振り返ると、私は本を読んでいる時間より、書店で過ごしている時間の方が長いと思う。平均滞在時間は3時間くらいになるかもしれない。それくらい、余暇の過ごし方の定番は書店に足を運ぶことだし、一度行ったらフラフラと長い時間立ち読みしたり、いろんな本を手にとって眺める。
さらに言えば、書店に対しては大変申し訳無いことに、最近は数時間近く書店に居座った挙句、何も買わずに帰ることが圧倒的に多い。何か一冊でもいいから持ち帰りたいという気持ちは強くあるにもかかわらず、結局は手ぶらで書店をあとにする。そんな日々が続いていた。

私にとって本や映画との出会い方は、おおよそ2パターンしかない。
ひとつは、出会うべくして出会い、読むことや観ることが必然として目の前に立ち現れるとき。このパターンでは、本の表題なり映画の予告なり、ともかく何かしらのポイントに心をつかまれるや否や、それ以後はもう私の意志とは関わりも選択の余地もなく、それを受け取ることが自分を超えた何かの要請として、頭から降ってくる感じなのだ。抗うことのできない見えない何かに「読め」と言われているから読むし、観る。そこに理由はない。

もうひとつは、本来向き合うべき現在の問題から目をそらしたい一心で、とりあえずなんでもいいから目の前にあるものを手に取るパターンだ。これは完全なる現実逃避の手段としての本や映画であり、このとき私は読みながら(観ながら)にして心は別の所にある。一応何かは受け取っているのだろうけれど、それに対して能動的に心身を働かせる気力は持っていない。

(古い)映画に比べて新刊本は単価が高めで手が出にくいせいか、あるいは読むことには観る以上の一定の能動性が必要とされるせいか、ともかく後者のパターンで本を選ぶことは少ない。結果的に本を読む=必然の要請(前者のパターン)となりがちで、そうなると私の狭いストライクゾーンにハマる数少ない書籍を求めて、書店放浪の日々を過ごすことになる。

本を読みたくてしょうがないのに、「これを読め、読まずに生きるな」というレベルで眼光鋭く読むことを迫ってくるような本には、なかなか出会えない。蔵書数レベルでは申し分ない大型書店に行って何時間も書棚を隅から隅まで眺めてみても、なぜかそういう本に出会えない。これはもう私の感性が鈍化しているとしか言いようがないのでは?近頃はそんな気持ちに支配されていた。

ちゃんと目的の本が決まっていて、本のタイトルも出版社もわかっているのなら、検索機で在庫をチェックすればいいだけだし、なんならネットで買えばいい。わたしがここで話題にしているのは、いわば出会いを求めて本屋に訪れたときの話だ。何か新しいものを吸収したいけど、それが何かが未だよくわからないとき。あるいは、言葉にしがたいもやもやを晴らしてくれるような何かを求めているとき。それに、そもそも自分の語彙や認知を超えた世界との接触を願っているとき。
そういうときに、「こんな世界もあるのか!もっと覗いてみたい!」と思わせてくれる本に出会うためにこそ、わたしは何度でも本屋に向かうのだ。


そんな中、先日近くで古本市が開かれていることを知り、迷わず足を運んだ。いくつかの古書店が本を持ち寄り共同で古書販売を行う、期間限定のイベントだ。定期的に開催されているのは知っていたけれど、これまできちんと訪ねてみる機会を逸してきたので、ここは逃すまいと気合を入れて臨んだ。

そしたらもう、欲しい本だらけでびっくりした。本のタイトル、帯の推薦の言葉、着眼と構成…その他諸々、刺さりまくって「読め」のオンパレードで、どうしようかと思った。そんなに持って帰れないし、古書とはいえ何冊も買ってたらお金足りないし…でもほしい!!みたいな本で溢れていて、暑さも時間も忘れて物色し回った。途中で気づいたら水分とらなきゃこのままじゃ熱中症になりそうってことに気づいて、慌てて休憩した。


追記(200318)
これは書きかけの日記。でもあのときの感動は覚えている。書きかけの続きは、「この経験を通じて、『自分は感性が鈍ってるのかな。没頭やフロー的体験とは無縁の人間なのかな…』という迷いと不安が消え去ったということ。なんだ、私もちゃんと没頭できるじゃないか。私が訪れるべきは、本屋ではなく古本屋だったのか」という結論だったと思う。

今度また古本市がある。前回が衝撃的な経験だったし、今はちょっと疲れてるから、たぶん同レベルの感動は得られないと思う。でも、今の自分の状態を知るバロメーターにもなるだろうから、また行ってみようと思う。