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210626 体験に言葉を与えること

二年ほど前の日記から。

私にとってヘッセは、「堅牢なつくりの石橋をまず自らの手で破壊し去り、かき集めた破片で一から橋を組み直す。そうして再構築した石橋を、誇り高く颯爽と渡ってゆく」ような人。また別の側面から見れば、冷静と熱情が共存している人。相反するものを身の内に抱え込み葛藤し、矛盾に苦しみながらも一切のごまかしを許さない飽くなき探求の道を、一人ひたすら歩み続けることのできる人。これらの資質が、彼の唯一無二の文体と作品を生んでいるのだと思う。何より、たゆまぬ思索の末に描き出された世界観が好き。

私自身は長らく「目の前にある石橋をとりあえず叩き割ったはいいものの、再建の方法が分からなくて途方に暮れていた」感じの人だったので、ヘッセの作品から伺い知れる彼自身の思索と探求の過程を追いかけることで、救われてきた部分は大きい。『シッダールタ』の訳者によるあとがきを読むと、ヘッセはこの作品を書いている段階で既に二十年もインド思想を研究しており、執筆においても多分にその影響を受けていることが推測される。それにもかかわらず、彼の作品が単なる宗教解説やその思想の焼き直しに留まることなく、彼独自の創作としての地位を確立しているのは、あくまでも彼が彼自身の体験に言葉を与えることに力を注いだからだろう。

 この作品で、ヘッセは、シッダールタ(悉達太子)という釈尊の出家以前の名を借り、悟りに達するまでの求道者の体験の奥義を探ろうとした。『シッダールタ』は、成就したもの(シッドハ)と、目的(アールトハ)との結びついたことばによっているが、涅槃に入った仏陀の教えを説いたり、成道を讃美したりするのでなく、あくまでヘッセ自身の宗教的体験の告白である。その体験の切実さと探求の独自性と、リズミカルに美しく、単純で含蓄に富む文章とによって、『シッダールタ』は、ヘッセの芸術の一頂点をなしている。
ヘッセ(1971)『シッダールタ』(高橋健二訳)(新潮文庫)新潮社、pp.155-156より)

ヘッセの言葉は色々な意味で「重い」ので、自分が元気でハツラツとしているときに読むと、彼の世界に引きずり込まれて次第に息苦しさを感じ始め、エネルギーを奪われてしまうことがある。他方で、迷ったり立ち止まったりしたときには、誰よりもそばに寄り添って力を与えてくれる存在でもある。さらに、ただ読むだけで満足するのではなく、自分自身の体験を言葉にすることの必要性も想起させてくれる。

私が私自身にとって重要な、意味ある体験や瞬間を言葉にすること。おそらくそれをしても、他の人にも影響を及ぼすレベルで普遍性の高い創作に至ることは、まずあり得ないだろう。私の体験も言葉も、私個人が身を置くごく限られた領域から生まれ出て、一生をそこで終える代物でしかない。それでも、自分がつまずいたときに自分の言葉から再起のための力を得ることができるなら、それ以上に望むものは何もない。本当に必要としているときに自分の言葉が自分を救えたなら、これほど頼りになる存在はない。自分が壊した石橋は、やはり自分自身の手で再建するより他ないのだ。

だから私は、自分の体験を言葉にできるようになりたい。今のままだと、必要なときに力を与えてくれるほどの言葉は、十分に生み出せそうにない。もっと言葉を鍛えたいと、このところ強くそう思う。

以下、ヘルマン・ヘッセ(2013)『ヘッセの読書術』(フォルカー・ミヒェルス編・岡田朝雄訳)(草思社文庫)草思社 、冒頭より。この詩も好き。実に数万冊もの本を読み、大変すぐれた読書家としても知られるヘッセの詩だからこそ、よく響く。

   書 物

この世のどんな書物も
きみに幸福をもたらしてはくれない。
だが それはきみにひそかに
きみ自身に立ち返ることを教えてくれる。

そこには きみが必要とするすべてがある。
太陽も 星も 月も。
なぜなら きみが尋ねた光は
きみ自身の中に宿っているのだから。

きみがずっと探し求めた叡智は
いろいろな書物の中で
今 どの頁からも輝いている。
なぜなら今 それはきみのものだから。