見出し画像

210501-31

0531

先日、小ぶりのびわがお手頃価格で売られていた。びわはただでさえ当たり外れが大きいし、安い分美味しくなかったら嫌だな、でも今が旬だし食べてみたい、どうしよう…と商品の前で迷っていたら、近くにいた女性に声をかけられた。その方は、ここのびわは美味しいよ、旦那さんが喜んで食べたよと教えてくれた。だから、迷わずかごに入れることにした。翌朝早速食べてみた。美味しかった。

-------

私は、最近の言葉遣いで言うところの「推し」と「友人」の区別を意識した方が良さそうだ。(推し:人やモノを薦めること、最も評価したい・応援したい対象として挙げること、または、そうした評価の対象となる人やモノなどを意味する表現。/実用日本語表現辞典

新しい人間関係について考えるとき、「推し」と「友人」を混同していたから、進むべき方向を見失いがちだった。両者の決定的な違いは、相互影響関係にあるか否かである。前者の関係は(少なくとも私が想像する関係においては)一方向的であるのに対し、後者は双方向のコミュニケーションを前提としている。新たな人との関わりを模索するとき、今の自分が求めているのは「推し」なのか「友人」なのか、分からなくなっていた。両方の要素をランダムに頭の中で思い浮かべてしまうから、混乱していた。

アナログな人間なせいか、画面越しに匿名のままで「友人」を作ることは、やっぱり私には難しい気がする。対面でのリアルな関係を想像できないと、関わることに意義を見いだせない。練習していくうちに慣れる可能性もあるけれど、がんばるのは程々にして成り行きに任せることにする。

ネット上では、基本的に「推し」を探すようにしよう。その人が活躍している姿を見ると自分もがんばれる、一方的に応援するだけで構わないと思える人を見つけて、大事にしよう。

0530

昨日は夜も眠れなくて、少し悪循環に陥っている気がする。ここで何とか軌道修正したい。眠れない夜は未来に対する不安が膨れ上がり、いずれ確実に起こる悲劇を思わせるリアリティを伴って、大波のように押し寄せてくる。以前の私は為す術もなく、その波に飲み込まれるしかなかった。でも今は、その波が偽物であることに気づけるようになった。波は、私の想像の産物でしかない。偽物でも怖いことには変わりないけれど、それでも以前感じていた震え上がるような恐怖に比べれば、何てことない。最近色々な変化と刺激に晒されていたから、少し疲れが出たのかもしれない。別に今までの努力が無と化して、過去の姿に戻ったわけではない。そんな風に大げさに考える必要はない。ただ、ちょっと疲れただけ。しっかり休んで回復すれば、気持ちも立て直せる。悲観しなくていい。

0529

今日は久しぶりに慢性不調が悪化して、気分最悪な一日だった。薬を飲み始めてからは改善している気がしていたけれど、今回はひどかった。夜になってやっと回復してきた。身体の調子が悪くなると、当然のことながら心の状態も悪化する。常にベストとはいかなくても、身体の健康のために自分にできることがあれば、手を尽くすようにしよう。

0528

0527

たくさんの喜びを、ありがとうございました。
どうか安らかにお眠りください。
FAMILY OF BOBBIE & ERIC CARLE より

In the light of the moon,
holding on to a good star,
a painter of rainbows
is now traveling across the night sky.

0526

「ぬるい不幸に酔えるなら、それはそれで幸せなんじゃない?」

-------

何にも悩むことがなく、心を萎縮させる感情のすべてが消え去ったなら、私はどうなるのだろう。そのとき私は、何をしている?

0525

新しいテーマの一つは、「時間」にしよう。

0524

模倣の欲望という概念も存在するように、人は他人の欲望を模倣する。これまで「欲望」という言葉から私の安直な思考が連想していたのは、金・地位・名誉・権力などであり、それらを模倣するくらいなら他人を視界に入れない方がましだ、などと考えていた。けれど最近、何かを知ろう・学ぼうとする他者の欲求に触れてそれを模倣することは大事だなと思った。他者の知的好奇心に触れたことをきっかけとして、自分でも予想していなかったような知ることに対する潜在的なエネルギーが発現し、そのとき初めて自分の中にそのような欲望を見出し得ることを自覚した。一人きりでも何かを知ることへの欲望は維持してきたつもりだったけれど、それだけでは得られなかった視点と発想が湧いてきて、しかもその力は強い。こんな形で人と関われたらいいなと思うことは何度もあったけれど、それを現実に経験する日が来るとは思いもしなかった。このところ新たに気づくことがたくさんあって、とても嬉しい。頭の中がドラスティックな変化を遂げつつある感じがする。

0523

体感的にはこの十年のうちの八割ほどの時間を、憂鬱や落ち込み、絶望感に打ちひしがれることに費やしてきた。過去の記憶に囚われて苦しみ、未来を想像しては不安に駆られ、自分の望みや意志、何もかもが分からなくなっていた。残りの二割の時間は、何とかその状態から抜け出そうともがき、絶望の中でも一筋の希望を見出す術を教えてくれる先人たちの力を借りて、何とか自分の身体を支えているような感じだった。そのせいか、日々の生活の中で最優先にしていたのは、「いかにして感情的な落ち込みを防ぐか。どうすればそれに支配される時間を最小限に抑えることができるか」という疑問に対する答えを見つけることだった。娯楽も気晴らしも何の慰めにもならなくて、ただひたすらこの問題の答えを探し出したい一心だった。憂鬱に苦しみもがいている時間があまりにも長すぎて、私はこの十年何をしてきたのか、いまいち思い出すことができない。

それが、ほんの一、二週間ほど前から変化し始めた気がする。もっと長いスパンで少しずつ変化してきたのかもしれない。何事にもすぐに落ち込んで、しかもその落ち込みの度合いがひどいせいで、どうやって生きていけばいいか分からないレベルの状態に陥るのは、日常茶飯事だった。落ち込むことが当たり前過ぎて、落ち込みからの回復のために日々の時間の大部分を割いてきた。その時間が今、徐々になくなりつつある。気分の浮き沈みはあっても「なんで生きてなきゃいけないんだろう…」にまで至ることは減ったし、生じた不安はその都度対処すれば、翌日以降に引きずらずに済むようになってきた。

「私は情緒的に不安定で落ち込みやすい人間である」という自己認識は十年かけて揺るがし難い信念の如く確立され、今後死ぬまで断続的なメンタル不調に悩まされつつ、それを適当に飼いならしながら付き合っていくしかないのだろうと覚悟していた。だけど、最近の自分の姿を思い出してみると、割と安定しているのではないかと感じるようになった。最近人から悩みはないかと聞かれたとき、ごく自然に何も話すことはないなと思った。そう思った理由は諸々あるにせよ、気づいたら何にも悩んでいなかった自分に気づき、自分でも驚いている。今となっては、一体これまで何にそんなにも絶望していたのか、不思議に思えてくるほどだ。

はたして私は、超長期に渡る心的不調を克服できたのだろうか。自分の望みは分かるようになった。それに向けて今何をなすべきか、個別の行動について分からなくて迷うことはある。でも、分からなければ調べればいいし、人に聞けばいい。そうやって不明点を解消し、次の行動を起こせばいい。このように、もしやるべきことが分からなくても、動いていればそのうち見えてくるだろうという漠然とした確信がある。だから、何もかもが分からなくて八方塞がりだと感じることはない。

こうした心境を冷静に眺めれば、何か特別なことに気づいたわけではないのは明らかだ。むしろ当たり前の事実を並べ立てているだけのようにも見える。だけど、一ヶ月ほど前まで、私にはこれらの思考回路が全くといってよいほど働かなくて、どうすればこれを体得できるのかも全然検討がつかなかった。本当に一体、何が変わったのだろう。いよいよ追い詰められて変わるのを待つのではなく、自ら変わらなければと思ったからだろうか。今はまだ変化の途上にあるせいか、自分の身に起きていることを客観的に把握することができそうにない。なにはともあれ良い変化なのだから、素直に歓迎すればいい。

二割の時間の中のさらにごくわずかな時間、今のような状態になることはあった。それでも、すぐに八割の方に引きずり戻されてしまい、長続きはしなかった。今回はどうなのか。「奇跡」のような変化は全く期待も信用もしていないので、今の感触が一時的なものとしていずれ消え去る可能性は当然あると思っている。たとえそうであるとしても、今この瞬間、私は自分のことが分かる。ずっとどうしても分からなかったことが、分かる。明日には分からなくなっても、それはそれで構わない。今分かるのなら、それで十分だ。

人格は地の子らの最高の幸福であるといふゲーテの言葉ほど、幸福についての完全な定義はない。幸福になるといふことは人格になるといふことである。
三木清『人生論ノート』より)

-------

ここ数年、最も関心を寄せてきた対象が二つある。最近、どちらに対する興味も失いつつある。その理由は自分でもまだうまく説明することができない。どちらにも自分が克服したい課題解決のためのヒントを与えてくれる要素があった。思い当たることがあるとすれば、私は別のルートから課題の捉え方を改めたことで課題そのものが解体されたため、それと同時に二つの対象への関心も薄れたのかもしれない。

考えを深めて新たな発見を楽しむための対象がなくなった。主たる関心事を二つ失い、今は少し手持ち無沙汰だ。探求しがいのある別の関心事を見つけたい。何から手をつけようか。

0522

▶現状肯定意識と成長・改善への欲求を両立させることはできるのか
保留にしていた疑問の解消。結論、矛盾なく両立する。加えて、この疑問が生じるのであれば、現状を肯定できていない証拠である。もし現在を迷いなく肯定できているのであれば、私は現在の自分が望む方へ、自分がより良いと考える方向へと自分を導こうとするだろう。それはごく自然な流れであり、あえて「成長・改善」と意識することはないかもしれない。それでも、その時々の自分が発揮しうる力を最大限有効に用いようと試みることができている点で、その行動は私にとってベストな選択であると言える。即ち、現在に対する否定的な感情が全く存在しなければ、身軽な私は自らの能動性に従って躊躇なく動き続ける。このとき、成長・改善への欲求は疑いの余地なく自分の中に組み込まれており、強いてそれを想起する必要すら認識されない。

他方で、現状を肯定しながら同時に成長・改善への欲求を失っているのではないかと疑念を抱くとき、その疑念の存在を以てして実際には現在を肯定できていないことが分かる。なぜなら上記の通り、現状肯定意識は成長・改善欲の存在を全く疑うことがないからだ。真に現在を認めているのであれば、今まさに取り組んでいることが自分になし得る最善の行為であることを、私は決して疑わない。ゆえに、自分に成長・改善への欲求が備わっているのかと疑いが生じたのであれば、私は現在の自分を否定している(もしくは、肯定の仕方が中途半端で本質が見えていない)のだと言える。その状況に陥ったときは、まずは自分が何を否定したがっているのかをよく観察しよう。邪念に気づき、適切に処理することさえできれば、誰に促されるでもなく、私は再び「最善の行動」へと自らを導くだろう。

0521

コメントでも話題になっている白いシャツの子、仏頂面だけど心から楽しんでいる様子が伝わってきて、見ているこちらも何だか楽しくなってくる。

-------

良質なコミュニケーションは、人を元気にするのだな。「人と話して心が軽くなる」という経験が少なすぎて、自分がそうなる可能性を全く想像できなくなっていた。他人と話をした後に疲労感よりも楽しかった、気が晴れたなどのポジティブな感情が上回ることがあり得るのだと、初めて経験的に学んだ気がする。そうした体験の記憶は断片的には思い出せても、かつては疲労と恐れがそれらを遥かに凌駕していた。だから、コミュニケーションを楽しめたのは、相手や環境の影響というよりも、私が自分自身の問題に一定の折り合いをつけることができた証なのだと思う。

今の感覚は、初めて自転車に乗れるようになったときに似ている。そこには「世間的にはごく当たり前のような顔をしているのに、自分にはどうしても分からなかった・できなかったことをついに理解した」と思えるような感動がある。これまでは「人と話をするのは大事なことだ」と頭では分かっていても、経験的な理解が全く追いついていなかった。苦手意識が強く、ずっと避けてばかりいた。ようやく今「人と話すことは大事だ」と、嘘偽りなく言葉にすることができそうだ。もちろん、これから先会話の中で困難を感じる機会は多々あるだろう。それでも、記憶の中でコミュニケーションには良い側面もあるのだと覚えておくことができれば、気持ちの持ち方は全く異なってくるはずだ。想定しうる不快な経験にも上手く対処するために、今の私に足りないものは明白で、それは経験だ。もっと数をこなして、コミュニケーションに対する考え方を改めていきたい。

0520

去年の春から今年の春頃まで、ちょうど一年程の間ずっと「人付き合いを頑張らなければ」という謎の焦りを強く感じていた。それが最近になってようやく落ち着きを取り戻している。我ながらあの強い危機感はなんだったんだろう、と今になって思う。自分にできる範囲で思いつくままにジタバタ動いてみて、気が済んだのだろうか。色々うまくいかなくて諦めた、というわけでもない。恐らくこの一年を通じて、自分が人との関わりに対して抱いていた過剰な期待を自覚し、その無意味さを徹底的に知り尽くして受け入れることができたのだろう。だから、無理に自分を急き立てる必要を感じなくなった。これからもぼちぼち頑張ってみるつもりだけど、マイペースでいいと思う。方向は間違っていない。少しずつでも、私はちゃんと強くなっている。

0519

他と比べて特別な感動があるわけではないけれど、気分の良し悪しに関わらず安心して聴ける曲をコンスタントに受け取っている気がする。これも十分好きの一つと捉えてよいのかもしれない。一般受け(世間の空気に対する感受性、時代との調和性)と個性の表現(ユーモア、メッセージ性)とのバランス感覚に優れている人たちだなと思う。理由はともあれ、いつも助けてくれてありがとうございます。

-------

There's a myth in most cultures about following your dreams. It's called the hero's journey. But I prefer a different myth, that's slightly to the side of that or underneath it. It's called the misfit's myth. And it goes like this: even at the moment of your failure, right then, you are beautiful. You don't know it yet, but you have the ability to reinvent yourself endlessly. That's your beauty.
Lidia Yuknavitch·TED2016 The beauty of being a misfit/Transcript より)

0518

今日は疲れた。たぶん、一気に動きすぎたからだ。前に進みたくて足を動かしたのに、過去を掘り起こす作業に向き合わざるを得なくなり、色々な考えが浮かんできて何度も不快な気分に引きずられそうになった。昨日書いたことが嘘みたい。毎日気分は移り変わるけど、それでいい。今日を無事に終えられたら、それで満足だ。顔の見えない他者の声など、気にしなくていい。

0517

先週ほんの少し前に進んで以降、もう一段階開き直りの度合いが高まったような気がする。悲観的な考えが頭の中を駆け巡って、身の縮むような思いになることが減った。今回結果にはつながらなかったけれど、心持ちの変化をもたらしてくれたから、無駄ではなかったと自然に思える。今の私は結果に一喜一憂せずに「次は何ができるか」ということだけに意識を向けることができている。このごく当たり前に思える行為も、どうしても自分にはでき難いことだと以前は思い込んでいた。でも、これまでずっと何をどうすればいいか分からないと思ってきたものが、少しずつ分かるようになってきた。できるようになったことはどんなに小さなことでもちゃんと認めてあげて、さらに一歩進むための力に変えていきたい。

0516

〈覚書〉
・将来への期待(目的)を持たず、数をこなして後の展開は流れに任せる
・ときには「事故」も起こりうるものと心得ておく
・偶発的、非意図的な人とのつながりは、どのようにして生まれるのか
・できるだけ正直に、自分の自然な感情を表に出すようにする
・自分が他者に対して抱きやすい期待や要求について自覚的になる
・他者の言動の背景にある経緯と事情をどれだけ想像できるか
・「感想」を言語化、共有することを怖がらずに試してみる
・長期的に安定した人間関係を維持するために最も重要なことは何か

0515

今日はちょっと無謀なことに手を出してしまった気がする。まあ、何とかなると思っておこう。

0514

今日は久しぶりに昼間、強い眠気に襲われた。あまり自覚はないけれど、どこかで神経が休まっていないのだろうと思った。気分転換が必要そうだ。

0513

お肉にまぶすために取り出した片栗粉がたくさん余ると、もったいないことをしてしまったなと地味にへこむ。今日はその後作り足した一品で余った分をきれいに消費できたから、おかげでいい一日になった。

-------

「この世で最も意義深いのは、物事の意義を消失させる行為である」

-------

何となく気持ちが落ち着かなくて、ソワソワしている。落ち込みや不安とは違う。今そうなるのは、多分しょうがないこと。時が過ぎるのを待とう。

0512

矛盾が存在するのは、私がそこに矛盾を見出しているから。ただそれだけのこと。

-------

偶然このツイートを見かけて、本当にそうだなと思った。私もこう思える人を増やしたい。そのために、SNSを含むネット空間をもっと上手に利用できるようになれたらいいなとも思う。

​ 0511

いただきものの海素麺が、とても美味しい。

-------

朝の散歩、一ヶ月。今日は方向性を見直して以後、改めて一歩を踏み出すことができた。結果がどうなろうと、まずは素直に褒めてあげよう。不安や恐れを感じたときは、自分が何を不安がっているのか、何を怖がっているのかを冷静に見つめるようにする。今後の流れの中でも嫌な感情に飲み込まれそうになる瞬間は多々訪れるだろうけど、その度に観察する癖をつける。そうすればきっと、よく見れば怖くないし、不安になる必要もないことがわかる。嫌な気持ちが湧いてこないようにすることはできなくても、それが現れたときに上手に対処することはできる。これまでたくさん、その練習をしてきたはず。だから、大丈夫。怖いけど、怖くない。

-------

0510

0509

Title
Mother's kiss / Mary Cassatt ; MC [monogram].
Contributor Names
Cassatt, Mary, 1844-1926, artist
Created / Published
[Place not identified] : [Publisher not identified], [1891]
(Library of Congress より)

画像1

-------

どうでもいいことに囚われて、身動きがとれなくなりかけている。過去に理由を求めても意味はない。今の自分を動かせるなら、理由はなんだっていい。頭の中で散らかっている重たい荷物を一度すべて取っ払って、身軽になろう。

0508

-------

熱意と気質の対立、あるいは矛盾について。第一に、熱意。はじまりは「困っている人の役に立ちたい」というごく単純な気持ちだったと思う。子どもの頃は飢餓や貧困、気候変動などの地球規模の課題に興味を持ち、将来はそれらの解決のために尽力できる人間になりたいと考えていた。十代を勉強に捧げたのも、公益に資するには自分の能力の及ぶ限りにおいて最も有用な人間になっておくべきだと考えたからだ。生きる上での困難を抱える人を減らし、より多くの人にとって生きやすい社会づくりに貢献することが自らの使命であると、かつては確信していた。

これに対し、極めて内向的な私の気質は、自分自身を社会や世間から遠ざけ、一人黙々と内省にふける時間を強く要求する。社会と積極的に「関わる」よりもそれを「観察する」ことを好み、問題解決を強く「訴える」よりも問題の核心を「探る」ことにエネルギーを費やす。自分が抱える内向性によって、私はほとんど無意識的・自動的にこうした行動に向かっている。(こんな文章を書かざるを得ないことが、考え事に多くの時間を要する現実をよく物語っている。)

熱意と気質は必ずしも全面的に対立・矛盾するものではないものの、両者は常に互いにブレーキを掛け合う関係にあり、私はその扱いに対処しかねてきた。熱意に従えば気質が自らの無能をさらし、気質に寄り添えば社会性の乏しい空っぽの人間が現れる。近年は気質に傾きながらも熱意を見失っている自分に嫌悪の念が募ることが多かった。熱意と気質の両方が仲良く共存できる場所を、私は未だに探しあぐねている。言い換えると、私は自分の「やりたいこと」と「できること」との間に大きな隔たりを感じているのかもしれない。

では、どうするのか。一つヒントが得られる気がしたのが、Brian Little教授によるWho are you, really? The puzzle of personalityだ。

話者は人格心理学の専門家であり、講演の中では特性論や外向性・内向性の違いなどについて語られている。上記の文脈で参照したいと思ったのは、人の特性を捉えるための枠組みを紹介した上で、何が我々の個性を作るのかについて言及している部分である。

話者は、我々の個性を作るものはパーソナル・プロジェクトであるとした上で、人は自分にとって譲れないことのために柄にもない振る舞いをすることがあり、それは「自由特性」というものだという。自由特性とは、人生の中核にあるコア・プロジェクトを進めるために「スクリプト(場面に応じた振る舞い)」を実行することを意味する。つまり、コア・プロジェクトは自分の気質とは異なる振る舞いを可能にする。

話者は内向型だが、自身のコア・プロジェクトである「教授すること」のために、必要とあらば擬似的に外向型らしい振る舞いをすることもあると述べている。このように、特性よりもまず「人生のコア・プロジェクトは何か」を問うことが課題解決のための道筋を与えてくれるのではないかと思った。ここまで頭の中を整理するのに少し疲れてしまった。休憩した後、もう一歩先に進めてみよう。

0507

十代の頃にお付き合いした人が夢に出てきた。現在の姿で再開を果たし、遠慮がちに互いの現状を労いながら少しずつ過去のわだかまりを溶かし、何やら感動的な和解を迎えたところで目が覚めた。時計を見る。午前1時44分。たぶん、いい夢だったんだと思う。

0506

今日から気持ちを切り替える。

0505

昨日、偶然ニュースで写真家・大竹英洋さんがインタビューを受けておられる様子を見かけた。私は初めて拝見した。ご自身の写真集『ノースウッズ-生命を与える大地-』(クレヴィス)で第40回土門拳賞を受賞された方らしい(今日見たらAmazonでは定価を超える値段になっていた)。お名前で検索してみると、いくつか関連記事が出てきた。例えば↓

記事によると、受賞作品展は東京と大阪で開催されるようだ。

【MEMO】大竹英洋写真展「ノースウッズ-生命を与える大地-」
ニコンプラザ東京 THE GALLERY 4月27日~5月10日、ニコンプラザ大阪 THE GALLERY 5月27日~6月9日

大竹さんは二十年に渡りノースウッズを取材されてきたと書かれている。その他現在に至るまでの挫折や様々な経緯について触れられている。きっとこの記事には収まりきれないほどの数多の苦難を経験する中で、撮られてきた写真なのだろうと感じた。記事の中ではいくつかの作品も紹介されていた。私は写真には疎く素人目ではあるものの、それぞれの作品とその背景に様々な物語を感じさせられるものばかりだった。写真展に足を運ぶことはできそうにないから、いつか写真集を手にとってみたい。

0504 

 知恵は、知識とは違う。フランスの思想家モンテーニュは、他人の知識で物知りにはなれるが、他人の知恵で賢者になることはできないと指摘した。
(コラムニストの眼)賢人が持つもの 自己を引いて見つめる力 デイビッド・ブルックス/2021年5月4日/朝日新聞より)

元記事は、Opinion | Wisdom Isn’t What You Think It Is | April 15, 2021 | The New York Timesのようだ。Lib Quotesを見ると、モンテーニュの言葉の出典はEssais (1580)とある。最近もやもや考えていたことがこの上なく明快に言語化されていると感じて、とてもスッキリした。記事全体としてもwisdomとは何かについての筆者の洞察がとても興味深かった。

-------

朝の散歩、今日で三週間。今のところ、ほとんど無理なく続けることができている。何かしらメリットを実感しているからだろう。今後生活状況が変わると継続が難しくなる可能性も十分あるけれど、できるだけ習慣にしていきたい。ただ、睡眠の質は期待していたほどには改善していない。日によって変化する。ここ数日(おそらく「無為」発言を受けて以降)は眠りが浅い。気にしていないつもりでも、頭の中ではぐるぐる考えてしまっているのだと思う。些細なことで不眠に陥ってしまうのは、きっと運動量が不足しているせいでもある。まずはそこから改善した方がよさそうだ。

-------

ときどき情報感度のようなものが急激に高まり、自分でも手に負えなくなって頭がパンクしそうになる。目に入る情報のほとんどすべてに興味が湧き、さらにそこから派生する情報を次から次へと追いかけて、自分で集めておきながら際限なく増え続ける情報量に圧倒されてしまう。気になるから調べるわけだけど、やはり極端すぎるのは考えものだ。自分でコントロールできなくなっていることに気づいたら、ペースを落とすようにしよう。

0503

今日は爽やかな快晴。日中の気温も過ごしやすく、家事がよく捗った。布団を干せた日は大体いい一日になる。先日スーパーでパプリカが久しぶりに安くなっていたので、赤と黃を一つずつ購入した。サラダでも炒めものでも、パプリカがあるだけで一気に華やぐ。こういうときに彩りって大事だなと感じさせられる。そろそろ夏野菜が美味しくなる季節だ。

0502

これを最初に見たのは随分前だけど、最近その真価を実感することが多いので改めてTranscriptを読み返してみた。話者は、創造力の秘訣はマルチタスクをスローモーションでこなす(複数のプロジェクトを掛け持ち、その時々の気分や状況で取り組むものを変える)ことにあると説く。創造力の高い人たちはスローモーション・マルチタスクをごく普通に実践していることが多いと指摘されている。

クリエイティブと呼ばれる領域に限らず、スローモーション・マルチタスクの姿勢・考え方は実生活で大いに役立つのではないかと感じている。例えば、今私は最優先で取り組むべき明確な課題を持っている。だけど、起きている間中ずっとそのことだけを考えているのは難しいし、それをすると閉塞感に耐えきれず、かえって課題解決が滞る事態を招きかねない。とはいえ、だからといって課題から逃げるようにして怠惰な時間を過ごすのも気が引ける。

そんなときこそ、自分にとって大事な(探求したいと思う)別の課題に目を向けることが救いとなる。頭の使い方や視点が変わることで気分をリフレッシュできるし、最優先課題で感じていた行き詰まりを打開するための新たな発想も浮かびやすくなるだろう。そうしてあくまでも「自分にとって大事なこと」に時間を使えば、その時間は単なる停滞ではなくなり罪悪感も覚えにくくなる。今後も自分なりの「プロジェクト」を掛け持ちする意識を持ち、心身の状態や状況に応じてそれらを渡り歩く生活スタイルを作っていきたいと思った。

話者は「創造力の高い人」の実例を多数紹介しており、中でも詳細な解説がなされているチャールズ・ダーウィンの研究活動の歩みが面白い。功績の如何はともかくとして、彼はまさしくスローモーション・マルチタスクの達人だったようだ。

0501

高校の卒業式、クラスのホームルームで保護者や担任、同級生たちの前で一人ずつ言葉を述べる機会が与えられた。私はそのとき、「自分自身に対して誠実であることを私は決して忘れない。何よりも第一にそうあることが、お世話になった人たちに対する感謝の表現であり、恩返しになると考えるからだ」みたいな話をした。当時は意識していなかったけれど、「自分に誠実でないものは、けっして他人に誠実であり得ない」(夏目漱石『行人』)のような感慨を表したかったのかなと思う。

その後二十代ではほとんどあらゆることに挫折して、過去の決意も発言も、守り通せなかったものを数え上げればきりがない。それでも「自分に誠実であること」だけは捨てようにも捨てきれず、ここまで何とか失わずにきたような気がしている。といってもそれは全く立派な話などではなく、平たく言えば、己の感覚に対してバカ正直すぎたせいで他の一切の物事を犠牲にしてきた歴史とも言える。だから、見方によってはただの「失われた十年」だ。

何がどう転んでそうなったにせよ、この十年は私自身の過去の選択の蓄積からなるものであり、自分の人生である以上はそれを受け入れるしかないことも十分納得してきたつもりだ。振り返って過ちと思うことは多々あっても、後悔はない。ただ、身近な人に「あなたは無為な時間の使い方をしてきた」と断定されると、単純に悲しいものだなと思った(これほどストレートな言い方ではなかったけれど、ほとんどそう言っているに等しかった)。ひとしきり落ち込んでメソメソしたら、少し冷静さを取り戻すことができた。

彼女の眼から見て「無為」でしかなかった時間が、私にとっても同様に「無為」であったとは限らない。期待に沿えないのは自分でも心苦しく思うし、私の将来を案じているがゆえの言葉であることもよく分かるけれど、その感傷に引きずられてはならない。彼女の不安は彼女のもの、私のじゃない。それに振り回されている場合じゃない。私は自分が今やるべきことだけに集中する。それ以外のことに気をそらされてはならない。

-------

四月が思いの外長くなってしまったので、五月から新しい記事に切り替えることにした。今月はどれくらい書くことになるのか、自分でも予想がつかない。来月以降どうするかは、また月末になったら考えよう。もみじは秋の紅葉と同じかそれ以上に、新緑の季節が好きだな。