200807 人付き合い3

考えごとの続き。

「他者との共通項の多さに基づいて、連帯の可否を判断したくない」
こう思うようになったのは、裏を返せば「共通項に基づいて連帯できそうな他者が、一人も見当たらなかった」という過去がある。

もちろんこれはあくまでも主観的な、私自身の物事の受け止め方の問題だ。ありがたいことに大きな不幸に見舞われることなく生きてこれたし、様々な面で多くのことに恵まれ、身に余るほどたくさんのものを受け取ってきたと感じる。かつて愛想のかけらもなかった私に根気よく付き合ってくれた友人や知人も目に浮かぶ。
それでも、それなのに私は、誰かや何か(コミュニティなど)との結びつきを感じることができず、自分は「孤独」だと思い込んでいた。

冷静に振り返る努力をしてみると、恐らく「人とわかりあえること」に対する理想が高すぎて、他者に対して一方的に多くの要求や期待をふっかけていたのだろう。要するに、人として未熟極まりなかった。だから、自滅的な感情が大半を占めていたと思われるけれど、当時の私はそれを自覚しないままに、ただひたすら耐えがたいほどの「孤独」に苛まれ、それに対処しかねていた。

どうあがいても「共通項に基づく連帯」の可能性をどこにも見出だせない。だけど、人として腐りたくない、弱いまま怯えていたくない。そう思い、精神をむしばむ「孤独」から脱却するためのアクロバティックな解決策としてたどり着いたのが、「連帯は、共通項に基づく必要はない」という答えだったのかもしれない。


「共通項に基づいて連帯」している人たちが身近にいれば、今の私はどう感じるだろう?やっぱり羨ましいって思うのかな。少なくとも、そういう人たちのそばにいれば、心は弱るのかもしれない。
「ひとは孤獨を逃れるために獨居しさへする」「 孤獨は山になく、街にある」(三木清『人生論ノート』青空文庫)とも書かれているように、(筆者の含意まではわからないものの)物理的に一人でいることって、むしろ容易いことなんだ。経験的にも一番きついと思うのは、大勢の中に放り出されたとき。集団の中にいながら、しかもその集団内で共有されている価値観や情熱を少しも分かち合えないことを、まざまざと実感させられたとき。それが一番こたえる。

今のライフスタイルは例外的、一時的なものにすぎない。いずれは「街」に出なければならない。そのとき私は、平静を保てるだろうか。
(共通項に基づかずに)誰とでも連帯可能であろうとすれば、逆に言えば、誰とも連帯できない可能性だってあるわけだ。そして私の現状は、後者に近いのではないか。


やっぱり今は考えごとに向いていない。
生産的な方向に進む気配がまるでない。
頭の中を、混ぜっ返さなきゃ。


追記(200812)