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210601-29

まえがき

その時々に何となく頭に浮かんで記録したくなったことを残すための場所。中身には特に意味はない。目的は、思考と感情の変化をたどり、拡散しがちな意識の方向づけを試みること。また、計画的に順序立てて一つの物事に取り組み、完遂させる力を鍛えるためのヒントを得ること。あまり気負いすぎず、だけど意識的に、できるだけ書くように心がけてみる。親しい友人に話を聞いてもらっているような感覚で、日々の心境や感触を素直に書きたい。

0629

書きたくなったことを書くときの言葉と、日常を記録するための言葉は別物。だから、今後は雑記録と日記を分けて書くようにしよう。日々の記録は自分用のノートで十分。やっと結論が出た。

0628

今日はずっと片付けられずにいた予定を消化できた。よかった。

元々毎日書くことを目標にしていたわけではないけれど、書き始めたらそれがルールの一つのようになり、これまでほんの一言だけでも書き残すことを続けてきた。そうすると、どうしても無理やり言葉をひねり出したような書き方になる日も出てくる。そうまでして書いた方がいいのか。それとも、毎日書くことにはこだわらず、思いつくままに流されてみた方がいいのか。自分でもよく分からなくなってきている。

これを書き始めた段階では、生活を律することに対する意欲が高かったので、毎日書くことにもほとんど迷いはなかった。約三ヶ月が経とうとしている今、少し気持ちがだれてきている。本来の目的に立ち返ったとき、これからどうするのが一番良いのか。前進するためにベストな選択を見極めたい。

0627

ここ一週間ほど、心ここにあらず状態だった気がする。もう一度気持ちを立て直して、目の前のことをちゃんと進めよう。

0626

今日は色々書き始めたら気分が乗って、久しぶりにたくさん書いた。書くことに集中しているとき、それ以外の余計なことは考えずに済む。集中と没頭は、ネガティブな感情が入り込む余地を与えないのだな。

0625

最近街なかに出る機会が何度かあり、いくつかの商業施設にも立ち寄った。色々な店舗でBGMとして自分のお気に入りの曲が流れてくるのに気づいて、何となく嬉しかった。あまりメジャーじゃなかったり、一昔前に売れて今はそんなに注目されていなかったりするアーティストだと、特に嬉しさが増した。お店で流す曲って、どんな風に決めているんだろう。

0624

「書きたくない」と思うのは、自分と向き合う力を失っているとき。自分の考えていること、取り組んでいることを「つまらない、くだらない」と感じているとき。今まさにその波が押し寄せてきていて、この日記を書き続ける意義を見失いかけている。書くこと自体が大切だというのは身にしみて理解したはずだから、クローズドに戻るか否かという問題…?だけど、クローズドな状態で惰性に流されずに毎日継続することはできるだろうか。

0623

今日は何も書きたくない。何を書いてもウソっぽい気がしてしまう。これはマンネリというやつなのか。子どもの頃「ねえ、何かおもしろいことない?」と毎日のように親にせがんではよく困らせていた。今もこの口癖を使いたい気分だ。ただし、何かがつまらないと感じるのは、それを見る私の目が曇っているからだということを今の私は知っている。視界を新たにしなくては。

0622

考えがまとまらない時期は、ある程度あきらめて無心で動けることに集中した方がいいのかもしれない。今日はミートボールがうまくできた。タネをよくこねて、丸めて、火を通して。そうして一連の作業にだけ意識を向ければ、嫌な気持ちにもなりにくい。今は我慢が必要な時期。そういうときもある。

0621

今年は豊作なのか、立派なズッキーニをよく見かける。かぼちゃやチーズと相性がよくて美味しい。せっかくだから新しいレシピにも挑戦してみよう。今週は夏野菜がたくさん手に入ったから、使い方を工夫したい。

0620

0619

何となく頭の中がふわふわしている。良くも悪くも気持ちが膨らみすぎている感じがする。こんなときは判断力が低下しやすいから注意しよう。

0618

ほぼ毎日文章を書いていると、自分の書き方や言葉遣いの癖に気づくようになった。そして、自分の文章に飽いてきている。インプットを増やした方がいいのだろうか。発散したいことに言葉を与えるために、もっと表現の幅を広げられたらいいなと思う。気兼ねなく本屋さんに長居できる日が一日でも早く訪れますように。

0617

何かを決めることは、あり得たかもしれない可能性を消していく作業でもある。一つ可能性が消えると、その他に自分に残された可能性があるのかどうかさえ疑わしく思えてくるときがある。それは一時的な不安に過ぎないから、一つの可能性が消えたときは一歩答え(決断)に近づいたんだ、くらいに思い直すようにしたい。ちょっと疲れてて頭がうまく回らないから、今日はこれで終わりにする。

0616

今日はちゃんとがんばれた。気候的にも嫌な気分に流されがちな季節だけど、うまく修正できた。今まさに自分がしていることを見れば「大したことない」と思ってしまうけれど、以前の自分と比べたらちゃんと(すごく)成長していると思う。だから「すごい、えらいね」と言ってあげたい。あくまでも自分の中の比較でしかなくて本当は「大したことじゃない」とも言えるけど、ここは日記なんだから、とにかく自分を励ましてあげよう。

あと、適度に予定を作ることは大事だなと思った。予定を詰め込みすぎてパンクするのが嫌で、基本的にかなり余裕を持ちたがるところがある。気が急くほど無理する必要はないけれど、予定が入れば自分で想像していた以上に案外物事が進んだり、その予定をきっかけに勢いがついたりと、何かと良い面もある。「自分のペースで予定を入れる」ことにこだわらず、「予定を利用して自分のペースを良い方向に持っていく」くらいの感覚でもいい気がした。

0615

少し停滞しかけている。迷ったときは基本に立ち返って、自分の現在地を確認して、またできることから進めていけばいい。大丈夫だから、がんばれ。

0614 

0613

先日引用した三木清『人生論ノート』にあった言葉。

人格は地の子らの最高の幸福であるといふゲーテの言葉ほど、幸福についての完全な定義はない。幸福になるといふことは人格になるといふことである。

ここでの「人格は地の子らの最高の幸福である」とは、ゲーテのどの言葉を指しているのか。少し気になっていたので、今日は気晴らしも兼ねて引用元の翻訳を含む書籍を手にとってみることにした。この言葉は「西東詩集」のうち、ゲーテ自身と恋人マリアンヌとの相聞歌を含む「ズライカの巻」に収められている。この中でマリアンヌはズライカ、ゲーテはハテムとして描かれ、恋人たちの対話が進む。

ここで面白かったのは、詩集中の文脈を踏まえると、おそらくゲーテ自身が「人格は地の子らの最高の幸福である」と考えていたわけではないと推測されることだ。三木による引用箇所を含む対話は、次のように展開する。以下、ゲーテ(1996)『世界詩人選1 ゲーテ詩集』(大山定一訳)小沢書店、pp.200-201より。

  ズライカ

庶民も奴隷も支配者も
みんなが口をそろえていいます。
地上の子の最大の幸福は
人格のみである、と。

自分自身を失わなければ
どんな生活も苦しくはない。
自分が自分自身でさえあれば
何を失っても惜しくはない、と。 

ズライカのこの言葉に対して、ハテムは以下のように答えている。

  ハテム

なるほど、それもそうだ。みんなそういっている。
しかし、ぼくの考えはちっとばかりちがうのだ。
あらゆる地上の幸福は
ぼくのズライカの身にぜんぶ集まっている。

ズライカが惜しみなくすべてをぼくにつぎこむとき、
ぼくはぼくにとって貴重なぼくとなる。
ズライカがぷいと向うをむくだけで、
たちまちぼくはぼくを失ってしまう。

ハテムはもうそれでおしまいだ。
しかし、ぼくは決してそのまま引きさがりはしない。
すばやくぼくは変身するのだ。
ズライカの愛する別の恋人に。

ハテム=ゲーテ自身とみなすなら、(少なくとも、この詩を書いた頃には)ゲーテは「自分が自分自身でさえあれば何を失っても惜しくはない」のようには考えていなかっただろう。むしろ、そのような考えを否定しているように見える。では、三木はこの詩の一部を切り取って独自の解釈を加えたと言えるのか。さすがにそこまでは分からないけれど、ゲーテ(ハテム)と三木の解釈の違いは、そのまま人生観の違いに通じるのではないかと感じた。私の考えはどちらにより近いだろうか。どちらの言っていることも、分かるような気がしてしまう。

0612

「天才は必ずしも人格者にあらず」とはよく聞く話だけど、スピノザは性格や生活態度の面でも非常に優れた人物であったようだ。例えば、フレデリック・ルノワール(2019)『スピノザ よく生きるための哲学』(田島葉子訳)ポプラ社では、スピノザが『知性改善論』の執筆に取りかかって以後の生活について、以下のように述べられている。

 バールーフはそれ以降、定規で引いた五線のように規則正しく節度ある生活を送るようになった。といっても決して禁欲的だったわけではなく、ビールを飲み、パイプをふかし、勧められた食べ物は何でも喜んで口にした。しかし、彼が本当に欲していたのは必要最低限のことだけで、可能なかぎり健康でいられ、落ち着いた場所で静かに仕事ができれば、それで十分満足だった。(p.54)

また、スピノザの伝記を書いたヨハネス・コレルスは、スピノザの性格について次のように記しているという。

「・・・そのうえ、どんなに規律正しく切り詰めた生活をしていても、人と話すときはいつでも柔和で穏やかだった。自分の感情や欲望のコントロールが驚くほど上手だったので、彼がひどく悲しんだり陽気にはしゃいだりするのを見た人は誰もいなかった。腹が立つことや不愉快なことがあったとしても、傍目には全くわからないほど、自分の感情を制御できる人だったのである。・・・しかもきわめて愛想がよく、人付き合いが苦にならなかった彼は、家の女主人にも、特に産後、彼女が安静にしていなければならない時期によく話しかけていた。そして、同じ家に住む人たちが何か悲しい出来事や病気に見舞われた時にも、自分から進んで声をかけていた。」(p.55)

これらの記述を踏まえると、彼がその思想のみならず人格的にも大変立派な資質を有していたことがよくわかる。「お手本にしたい」と言うのはあまりにも恐れ多くて気が引けるけれど、私が夢見る方向性として覚えておきたい。

0611

自分の中で矛盾を感じていた要素、いつも喧嘩していて私を疲れさせていた対立項の両端が、最近仲良くしている気がする。水と油のように互いに反発し合って共存できずにいたものたちが、相手の邪魔をせず、しかも各々の持ち前を臆することなく発揮している。先週も似たようなことを書いた。やはりバランス感覚を体得しつつあると考えていいのだろうか。「夢見がちなリアリスト」は実在可能なのかもしれない。もしも〈ヒーロー〉と〈女神〉が互いに手を取り合うことができたなら、もはや怖いものはない。

0610

今日は一日の始まりに少し嫌な気分に引きずられてしまった。でも、トータルで見ればいい一日だったと思う。というのも、ある方が私が書いたとある文章を褒めてくださったからだ。余計なことを考えるまでもなく単純に嬉しかったし、自分の存在を認めてもらえたような気がして何だかホッとした。私もあんな風に誰かの良いところに気づいたり、励ましたりできる人になりたい。

0609

『私の個人主義』、再び。
自分にとって最も大事だと思えることをはっきり認識できたとしても、それを常時同じレベルで意識し続けるのは難しい。日々の雑事に追われたり、予期せぬ不運に振り回されたりしていると、いとも簡単に見失ってしまう。だからこそ、掘り当てた鉱脈の在処を忘れずに覚えておくための努力が必要となる。それはいわば脳内に浮かぶ鉱脈の画の解像度を上げる作業であり、鉱脈をまなざす視点の多角化を図る試みである。そうした努力を通じて、鉱脈の画はより鮮やかにはっきりと浮かび上がり、私の脳裏に焼き付くことになる。

それができれば、日常の些事に惑わされることなく、大事なものを常に大事にし続けることができるようになる。これに至る道のりは長くて果てしないものにも思えるけれど、地道な努力を続けるより他ない。そして、解像度を上げたり視点を多角化したりするために欠かせないのが、勉強である。勉強とは、大事なものをより良く明確に認識するために有用な一つの手段であり過程である。また、書くことは定期的に勉強の成果を表現して自分の現在地を把握するのに役立つ。すべては〈鉱脈〉を守り通すためにこそある。

0608

〈日記の効果〉
・過去の清算のために役立つ
・現状認識の歪みを自覚できる
・気分の波を最小限に抑えられる

0607

"i can't live without you." は、本当に愛の言葉なんだろうか。

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今日は行動に取り掛かるまでに少し時間がかかったけれど、一度勢いづくと流れに乗ってうまく作業を進めることができた。行動力に関しては、とにかくまず着手することが重要だという話を度々耳にしてきたはずだ。気が重いと感じるときほど、適当にでもいいから手を動かす習慣をつけたい。始めてしまいさえすれば案外前に進めることを、忘れないようにしよう。今日は少し希望が見えたから、この調子でがんばりたい。

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たまに痛々しい文章を書いた後は、大体後悔する。特に人に対して過度に批判的なことを書いたりしてると、自分はすごく嫌な人間だなと感じて、自分の文章のせいで気分が悪くなる。だから、そんな文章は書かないに越したことはない。それでも、どうしても書かざるを得ないときは、書くことを許してあげた方がいいと思う。なぜなら、長い目で見ると書いたことで、それまで未消化だった過去を清算できていることに気づいたからだ。これまで何度も様々な形で過去に関する日記を書いてきた。それらはたしかに、過去への執着を捨てて前進するために役立っていると感じる。書かなくて済むならその方がいいけれど、書くことでモヤモヤを吐き出して心が軽くなるなら、それは自分に必要なプロセスとして認めてあげよう。そして、痛い文章を消さずに残しておくことも、戒めの一つだと思うようにしよう。

0606

数年前に初めて聴いたときはスルーしてしまった。今改めて、好きになった。HMV&BOOKS onlineでの説明によると、この曲のリリースは2007年。時期は分からないけれど、Mac Book AirのCMに起用されていたらしい。たしかに、何となく懐かしさを感じる。

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歩道橋の真下の道を通っていたら、橋の中央付近で何人かの子どもたちが一生懸命に、力いっぱい手を振っている姿が見えた。あの子たちは誰に向けて手を振っていたんだろう。

0605

やっと『エチカ』を手元に置く気になった。いきなり張り切って読もうとしても難しいだろうから、他の解説本などで引用されていて気になった箇所から、少しずつページをめくってみることにしよう。中古を買ったら結構年季が入っていて、発行は1993年とある。前の持ち主は、第二部後半から第三部にかけて、ところどころ線を引いている。自分とは異なる目線が含まれているのも、それはそれで面白い。スピノザの言葉には、清廉潔白さを感じる。そこには、触れるだけで少し心が浄化されるような美しさがある。

 定理四三 真の観念を有する者は、同時に、自分が真の観念を有することを知り、かつそのことの真理を疑うことができない。
(中略)
 備考 ・・・あえて問うが、前もって物を認識していないなら自分がその物を認識していることを誰が知りえようか。すなわち前もって物について確実でないなら自分がその物について確実であることを誰が知りえようか。次に真理の規範として役立つのに真の観念よりいっそう明白でいっそう確実なものがありえようか。実に、光が光自身と闇とを顕わすように、真理は真理自身と虚偽との規範である。
スピノザ(1951)『エチカ―倫理学―(上)』(畠中尚志訳)(岩波文庫)岩波書店、pp.144-145(第二部)より)
 感情ならびに人間の生活法について記述した大抵の人々は、共通した自然の法則に従う自然物について論じているのではなくて、自然の外にある物について論じているように見える。実に彼らは、自然の中の人間を国家の中の国家のごとく考えているように思われる。なぜなら彼らは、人間が自然の秩序に従うよりもむしろこれを乱し、また人間が自己の行動に対して絶対の能力を有して自分自身以外の何ものからも決定されない、と信じているからである。
(同上、p165(第三部 序言)より)

0604

ものすごく久しぶりに、自分の中に「頼もしさ」のようなものを感じた。今よりもずっと世間知らずだった十年程前までは割と安定的に自分を「頼もしい」と感じていたけれど、色々と失敗や挫折を繰り返し、今ではすっかりその感覚が消え失せていた。

私は自分の中に「物事をきちんと着実に前に進めることや一定の秩序を重視する考え方・ある種の厳格さ・冷徹さ」と「情緒的に流されやすく、優柔不断で、人との対立を回避したがる傾向」の両方を見出す。そして、両者は互いに相容れないもののように思えて、そのバランスをとるのに苦慮してきた。

二十歳前後までは前者のみを自覚し、それだけで自分を定義しようとしていた。だけど、自分の望みに反して度々後者が現れるので、〈厳格さ〉に基づく一面的なアイデンティティの確立に失敗した。その反動からか、今度は後者に振り切れた。あらゆることに迷い、ためらい、些細なことに傷つき、思い悩むようになった。しかし、やはり両方の要素は変わらず自分の中に見出されたので、後者のみの世界に留まることもできなかった。

そうして今、ようやく両者を矛盾なく両立させる方法を体得しつつあるのではないかと感じている。少しずつ前者の世界に含まれていた価値と利点を思い出しながら、他方で後者の素質も蔑ろにすることなく、互いを排除し合わずに内的調和を達成しようとしているのではないか。だから(後者に偏った状態から前者にも意識を向けたことで)、「頼もしさ」を感じられたのではないかと思う。

このバランスがどのように成立するのかについて、言葉で説明するのは難しい。幾度となく両者が対立し、その中で葛藤に対処してきた経験を通じて、少しずつ身に付けてきたもののような気がする。これからさらにバランス感覚を鍛えて、いつか明快に言語化できるようになりたい。

0603

ご近所のあじさいが、どこもきれいによく咲いている。今が見頃かな。今日は何となく気持ちがソワソワしていて、あまり集中力を維持できなかった。これまで少しずつ前に進めてきて、今やるべきことは既に用意できているはずだ。動きが鈍っているのは、決断をためらっているからなのかもしれない。漠然とした恐怖心が何かと正面から向き合うのを避けたがっていることに気づいたら、冷静に怖がっている気持ちの中身を確認して、一つずつ片付けよう。気持ちは何度ぶれても構わないから、その度にこの作業を何度でも繰り返そう。そうすれば、怖いものもいずれ怖くなくなるんじゃないかな。

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一月ほど前に『海の上のピアニスト イタリア完全版』を見た。割と主人公に共感を覚えながら同じ目線に立って鑑賞していたら、物語の最後で心が折れてしまった。あの結末をどのように受け止めればよいのか、未だによく分からない。素晴らしい作品に違いないとは思うけれど、今のところもう一度観る勇気は出てきそうにない。でも、この感傷に引きずられないようにしよう。私は、地に足のついた人間になりたいんだ。

0602

「人に憧れる」ってどんな感情なんだろうと思い、検索して出てきた記事をいくつか適当に読んでみた。解釈の仕方は色々ありそうだけど、一歩引いてその人に憧れる意味や理由を考えることは、自己理解に役立つ視点なのかなと思った。これまでオタク的に何かや誰かを偏愛した経験がなくて、「推し」という考え方・あり方がよく分からなかった。でも、憧れベースで大事にしたい「推し」ができると、生きていく上での心の支えになるかもしれないと思うようになった。救いにはならなくても、支えにはなり得る。

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自分の存在のくだらなさに嫌気がさすときは、大抵自意識過剰になっている。フラットな気持ちで自分のことがどうでもよくなる、もしくはそれを意識の外に置いておけるとき、私は最も良い形で自分の力を発揮できているはずだ。私が直面する様々な課題の克服を考える上で共通して重要となるのは、不要な自意識を積極的に捨てることだと言えそうだ。自分のことをあれこれ思い煩う時間など、早くなくしてしまいたい。

0601

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朝の散歩、七週間。
今日は一日冷静にがんばれた。雑記録を書き始めて約二ヶ月、たぶんメンタルの安定性を高めるのに役立ってくれている。感情の振れ幅が大きくなりすぎないように、気持ちが傾きかけたときは書くことで自制・調整することができている。少なくとも以前の自分と比べれば、良い方向に進んでいると言っていいと思う。もうしばらく続けたい。