210118 〈TED〉再考:懐疑論に関する雑念処理

↓は上記に関連して目に留まったので(この枠でパスカルは何度か登場しているようだ)。

懐疑論について疑いながら話す人は少ない。
(パスカル)
 あらゆるものは疑いうる、絶対的な真理などというものは存在しないと、確信をもって主張することの矛盾を言っている。(中略)17世紀フランスの思想家の『パンセ』(前田陽一・由木康訳)から。
折々のことば:1973より)


私にはずっと、確信を持って語ることのできるものがなくて、今もそれらしきものは持っていない。その反動からか、もしも確信の持てることを見つけられたなら、それさえあれば私の世界は一変し、あらゆる迷いと邪念が消え去り、後は日々をまっすぐに突き進んでゆけばよいものだと思い込んでいたふしがある。これは単純化の良い例だ。私はあまりにも物事を単純化しすぎている。事はそんなに単純ではないはずだ。

「あらゆるものは疑いうる、絶対的な真理などというものは存在しないと、確信をもって主張することの矛盾」。私はまさにこの矛盾の体現者になってしまっていたのではないか。口では「相対主義」などと自分でもよくわかっていないはずの立場を持ち出して、私自身の考えの正しさにも疑いの眼差しを向けていればそれで問題ないのだと、私はローティのいう「アイロニスト」として自分の信念が偶然の産物に過ぎないことを認めているだけなのだ、などとうそぶいてはいなかったか。

「真理の不存在、あらゆるものは疑いうる」という主張すら、疑いの目をもって語られなければならない。この複雑さ、物事の不確かさに私は耐えることができないでいる。忍耐の力が乏しすぎるのだろうか。確実であることが難しいことと真実の不可能性とは、どうして別物と言えるのだろう。言い換えると、ある物事が「真実」と言えるなら、それはその物事が「確実であること」と同義ではないのか。なぜこの二者を混同してはならないのか。(これについては現時点で満足のゆく答えが見つかりそうにないため、保留としよう。)

また、別の角度から見れば、私は自分にとって「確実なもの」を得たいがために「真実」を望んでいたと言える。しかし、自分の体験的な確信を持って信じることのできる真実はこれまでに見出すことができなかったため、「自分にとって最も確かなことは、確かなものなど何もないということだ」という懐疑論に頼るようになっていた。問題は、これを拠り所として自分の行動を導こうとしても、どうもうまくいかないというところにある。きっと私は、この結論めいたものをわかっているつもりで全然わかっていないのだろう。理解が浅いから、現実の行動に結びつかない。

さらに、なぜ「確実なもの」を欲していたかといえば、(既に冒頭でも書いたように)それさえわかれば私はこの上なく能動的な人間になり、一切の迷いと不安を排して、それに身を捧げ、しかもそこに幸福を見いだせるものだと信じていたからだ。しかし、果たしてこれは本当だろうか。仮に私にとっての「真実」が明らかにされたとして、ありとあらゆる迷いと不安は払拭できるのだろうか。

「『確実なもの』さえ手に入れば、私は自分の人生に責任を持てるようになる」、あるいは「『確実なもの』がなければ、私は私の人生を導くことができない」。半ば信仰に近いこれらの思い込みは、なぜ本当であると言い切れるのか。「『確実なもの』が見当たらない、『確実なもの』が欲しい」と言いながら、無意識のうちにこうした思い込みを動かしがたいものとして確実視している。自己矛盾もいいところではないか。

翻って、「確実なもの」の存在の有無が重要な問題ではなくなったとき、「『確実なもの』が手に入らなくても、私は人生を全うできる」ということに気づいたとき、私はどうなるだろう。確かなものなんてわからなくても、きっと心穏やかに生きていくことはできるはずだ。
しかし、忘れてはならないのは、自分にとって確かなものが現時点において見えづらいものであったとしても、だからといって、「真実など存在しない」と決めつけてはならないということだ。知ろうと試み続けることを諦めてはならない。それを自分に許してはならない。「真実に対する懐疑は、固有のバイアスを正当化する方向に働」いてしまい、現実認識の歪みをさらに助長する恐れがあるからだ。

また、自分にとって確かなものが見当たらないという事実は、圧倒的な他者不在という現実に由来するところがあるのではないか。多くの他者と関わり、社会との接点が増えてゆけば、自ずと自分にとって確かなものも増えてゆくだろう。外に目を向けて環境を変えれば、自分も変わるはず。まずはその可能性、それが十分に起こりうるものであることを自覚する必要がある。

〈一応の結論〉
▶世界や社会が複雑すぎて自分の手に負えないからと言って、「だから『真実』は存在しない」などと安易に結論づけてはならない。自分の世界観は「他人の持つ証拠や経験をもとに改善する余地のあるものとして捉え」、もっと粘り強く物事に取り組む力を鍛えること

▶自分にとって「確実なもの」を手に入れることに執着しすぎない。それがないからと言って自分の生き方を直ちに否定する必要はないし、それなしでも有意義な生き方は実現可能であることに気づくこと

▶中長期的には自分の視野・世界を拡げていく中で、「確かなもの」が定まってゆく可能性は十分にある。今、確かだと思えるものが少ないからといって、すぐに状況を悲観しないようにする。焦らず騒がず、目の前の努力に集中すること

▶最も重要なのは、「この文章は私の行動変容にどのような貢献を果たすのか」を明らかにすることである。私は今、どうしても書かなければいけなかったからこそ、これを書いているはずだ。恐らくは、自分の理性に対する不信を克服し、適切な形で用いることのできるようになるために、そのためにこそ書いている。どうしてこんなことを考えざるを得ないのかという虚しさも湧いてきそうになるけれど、書いてしまったものは仕方がない。せめて書きっぱなしにせずに次の行動につなげる努力をすること


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※以下、冒頭TEDに関する覚書(Transcript/日本語訳参照)

▶情報が溢れる社会=「知識の分極化」
→真実の見極めが難しく、知識は増えても理解が浅い
→ネットは個人最適化された環境、自分の好みを満足させるように仕立てられている
▶「知識の分極化」に対する一つの解決策
→テクノロジーの改修、プラットフォームをデザインし直すこと
▶哲学の役割
→「私たちは共通の現実に生きている」という考え方を見直す

〈「共通の現実」の受容のために必要な3つのこと〉
1.真実を信じる必要があること
▶私たちは以下のような真実に対する懐疑に魅了されがちである。
「我々は自分が持つ視点の外には出られないし、バイアスから逃れられない。逃れようとするたびに自分の視点に基づく情報をさらに得るだけだ。
だから我々は客観的真実が幻想で、どうでもいいものだと認めた方がいい。
なぜなら真実の正体は知り得ないか、そもそも真実など存在しないのだから。」

▶「客観的真実は幻想である」「人間は万物の尺度である」(古代ギリシャ哲学者プロタゴラス)
→これは哲学の名を借りた自己正当化にも思える。確実であることが難しいことと、真実の不可能性を混同しているから。真実に対する懐疑は、固有のバイアスを正当化する方向に働く。居心地のいい情報の中に閉じこもり、不誠実に生活するほうが簡単だから。(例:フェイクニュースという言葉、それが存在するという事実そのものが、人々にとって好ましくないニュースという意味になった。)

▶真実への懐疑が本当の意味で危険なのは、専制につながること。
「ある人間が万物の尺度である」となると、強者だけが生き残るようになる。「党が表明することは全て真実であり、真実とは党が表明することである」
→この理屈を受け入れると、定義上、権力が真実を語り、権力に対しては真実は語れないということになる。

2.「知ることに果敢であれ」(カント、啓蒙主義のモットー)
→「自分自身で知ることへの果敢さ」
インターネットが可能にしたのは「グーグル的理解法」=予め用意された一連の事実をダウンロードし、SNSという組み立てラインで順序を入れ替える。
→一連の事実をダウンロードすることと、事実の背後にある理由や経緯を理解することは別物。後者を知るためには、自分自身で作業を行い、創造的洞察力を持つこと、想像力を働かせること、野外に出ること、実験、実証、他の誰かと話すことが必要になる

3.いささかの謙虚さを持つこと
「すべてを知っているわけではない」ということを認識すること。自分の世界観を他人の持つ証拠や経験をもとに、改善する余地のあるものとして捉えること。謙虚さとは、自分の知識を他人からの貢献で高め、豊かにできるものと捉えること。
→傲慢と自信を混同し、謙虚さは失われやすい

〈まとめ〉
共通の現実が存在するという概念は見過ごされやすいが、市民が共通の場所で生きる努力をしなければ、民主主義は機能しない。意見が対立するときにこそ、アイデアをやりとりできるような共通の場所で生きる努力が必要になる
→そのためには、共通の現実があることを受け入れる必要があり、それを受け入れるには、真実を信じ、より能動的な知の獲得法を広め、人間が万物の尺度ではないことを認識できる謙虚さを持たなければならない

私達の視点は素晴らしく美しいものだが、それだけのもの。
1つの現実があってこそ、いくつもの視点が生まれる。

つまり、ここで私が学ぶべきは、「真実への懐疑」は自己正当化の手段となりうること、故にそれに依存し、見慣れた世界に留まりたがる態度には多くの危険が伴うこと。また、物事の不確実性と真実の不可能性を混同すべきではないこと。