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210317 会話

「世間」はどこまでも自分にはよくわからなくて怖いもの、という漠然とした恐怖心がある。ちょうど最近は視野の狭まりに危機感を覚えていたこともあり、この恐怖心を和らげて変化を促すきっかけを作りたいと感じていた。そこで、昨年友人に教わったトークアプリを使って知らない人と何度か会話してみることにした。そのアプリは怪しげな人や業者っぽい人は少なく、比較的平和な空間だったと思う。

何人かの人と他愛のないおしゃべりをしてみて、世の中には本当に色んな人がいて、それぞれの人が色んなことを考えながら生きているのだなと感じた。この上なく拙い感想だけど、これ以上の語彙が思い浮かばない。これはnoteを読むときにもいつも感じていることで、文章を介さず実際に知らない人とお話してみると、その実感はより強いものになった。

以前の私は誰かと会話する度に「こんなことを考えている人がいるのか、すごいなぁ」という衝撃にすぐに飲み込まれていた。それに加えて無駄に相手と自分を比較して、「自分はなんにも考えてないな」とか「なんでこんなにエネルギー量が違うんだろう」などと考えては落ち込んでいた。今回お話した人たちも、自分よりもずっとアクティブでエネルギッシュだなと感じた。会話に対する主体性の現れだったのか、偶然そういう人とのお話が重なったのかは分からない。

いずれにせよ、相変わらず他人との会話の余波はなかなか収まってくれない。それは余韻というよりもある種のショック状態に近く、それぞれの会話を消化しようとしている間は、何となくぼんやりして自分の居場所を見失ってしまったような感覚に陥る。そうか、今やっと言語化できた気がする。私が苦手なのは人との会話それ自体ではなく、その後にやってくる自分の足場がおぼつかない感覚とその時間なのだ。人に興味がないわけでも嫌いなわけでもないけれど、一度話すとそれを消化するのにすごく時間がかかってしまう。しかもその間はずっと、どこか気持ちがふわふわしていて、それまで確かだと思っていたことも信じていいのか疑わしくなってくる。この靄のかかったような状態はとにかく居心地が悪いのだけど、人と会話した後はどうしても一定程度この時間が生じてしまう。私はこの感覚が嫌なばかりに、人との会話そのものまで避けてきたのかもしれない。

今回のように危機感や好奇心が上回れば、これまでも自分から動いて知らない人との接点を作ろうとしてきた。でも、その度に後にやってくる混乱状態に疲れてしまい、やっぱりコミュニケーションは苦手だという気持ちが湧いてきて、きちんと振り返らずにそのまま片付けてしまっていた。たしかに広く浅く数をこなすタイプの交流は明らかに下手だと思う。ただ、一言でコミュニケーションといっても関わり方には色々な種類があるわけだから、安易に結論を急がず、自分なりにやりやすい方法や得意な部分を探すことの方が大事じゃないかと思った。

消化途中のもやもやした感じは落ち着かなくて嫌な気分になりがちだけど、会話の中で受け取ったものを取捨選択しながら自分の中に取り込んでいくために、私にはどうしても必要な過程なのだと思う。しばらく経てば今いる場所を思い出せるはずだから、焦らず待つことを覚えよう。そして、会話そのものを嫌わないようにしよう。消化に時間がかかるとしても、会話から得たものはちゃんと少しずつ自分の一部になっている。それを素敵だと思えたら、「世間」も怖いことばかりじゃないと感じるようになるかもしれない。無理に会話を増やしてもきっとパンクするだろうから、ペースは自分の感覚を大事にしつつ、人との会話を前向きに楽しめるようになりたい。


追記(210319)
一人きりでいても、二人でも大勢でも、誰がいてもいなくても、そこでどんな時間を過ごしても、大丈夫な人になる。