210107 手放すことのできない物語


あの物語、手放したつもりで、やっぱり手放せていなかった。
それは物語というよりもむしろ、私を導く指針や目標と言えるものであり、何事もよくわからないという状態が既定値となりつつあったここ数年の私にとり、唯一それを信じ、それに向かって自分の行動を方向づけてゆくことを辞めずに継続することのできる、一筋の希望のようなものだった。

だけど、手段を尽くして、必死になって追いかければ追いかけるほどに、それは私の手の中からこぼれ落ち、日に日に遠のいていくように思えた。何事も小さな一歩の積み重ねが大事だからと、何度も自分に言い聞かせては地味な努力を積み重ねようともがいてみても、それが実を結ぶ気配は一向に現れないように思われた。足踏み続きの日々の中で時間ばかりが過ぎてゆき、あれこれやっても目標に近づけていないことへの不安と焦りは募り、そうして知らず識らずのうちに私は、自分で自分を追い詰めるような思考回路に支配され、気づけば出口の見えない迷路に迷い込んでしまっていた。

結局、それまで私を導いてくれていたはずの希望の光が自らの苦境を招き、むしろ行動を制約してしまっていたという事実に気づくに至り、ついに目標を手放すべきときが来たのだと悟った。だから私は、この壮大かつ矮小な物語を手放すことを決意し、現に手放したつもりでいた。

でも、今の自分を眺めてみれば、実際には手放せていないということがよくわかる。私の心はどうしてもそちらの方に向かってしまうし、それなしでは日々の行動を選び取ることすらままならず、あらゆる物事に対して非常に無責任な態度を取らざるを得なくなってしまう。物語なくして、どうやって自分を奮い立たせ、主体的な行動への活力を生み出せるのか、私には全然分からないのだ。この物語は、私を動かすことのできる、ただ一つの原動力と言えるのかもしれない。

そうであるならば、この物語を捨てることなく、これとともに元気に生きていく方法を考えなければならない。今回一つ学んだのは、物語の細部、具体的な描写の再現にこだわってはならないということだ。一般に目標は明確であるほど良いというように語られるけれど、私の場合、いつの間にか目標と理想がすり替わってしまい、頭の中で鮮明に描き出された完璧な理想像の実現を自らに課し、その途方のなさに打ちのめされて自滅するというパターンに陥りがちだ。つまり、目標(理想)に含まれる具体的な何かを実現できそうにないことを悟ると、目標(理想)そのものを持ち続けることの意義まで見失ってしまい、気力が損なわれてしまうのだ。

先日目標を手放さなければと思い至った原因も、恐らくはここにある。「自分には無理だ、とても手が届きそうにない。だからもう、追いかけるのは辞めにしよう」、これまでにも何度そう思ったか分からない。でも、こうした事態に直面したときに私が自覚しなければならないのは、具体的な何かが手に入らないからといって、目標そのものの実現が不可能になったわけではないということだ。ここまでくると、私が手放すことのできない物語とは、「目標」というよりも「目的地」と呼ぶべきものなのかもしれない。

私の目的地は途方もなく遠いところにあって、それを手頃なものに置き換えることはどうしてもできそうにないし、しかもそれなしでは普通の生活の維持への意欲すら、持ち続けることができそうにない。他方で、今のところそこにたどり着く目処は、全く立っていない。生きているうちに手が届かないかもしれないというその距離ばかりを見つめていると目が眩んで挫けてしまうから、目的地はぼんやり見やることができれば、それでいいと思うことにしよう。多少逆説的ではあるけれど、私にとっては、目指す所は遠すぎてよく見えないくらいの方が、現在の努力を促してくれる気がするんだ。その方がきっとがんばれる。私の望みは目的地に到達することではなく、そこに向かって死ぬまで歩み続けることだと思うから。

目的地は、その場所が存在するという認識と自覚さえあれば、一々立ち返らなくてよい。そんなことしても疲れるだけだ。それよりも大事なのは、方角を誤らず、歩みを止めないこと。行く手を阻む障壁を最小の労力でかわしつつ、目の前の一歩に全力を尽くすこと。今は目的地より道程に集中しよう。今はこの物語だけが、私を動かす力を持っているらしい。捨てずにおくから、お願いだから、私を動かしてね。