190303 後悔


ある時ある頃の自分の所業とふるまいを、私は深く悔いている。
といっても、「あのとき〇〇していれば、今頃きっと△△だったのに…」という類の悔いとはちょっと違う気がする。冷静に考えて、あのときはそうするのが一番だと思っていた、あるいはそうするより他なかったのだ、ということは頭で理解できるし、これに対して反発する気持ちも見当たらない、と素直に感じられる。
ただ、あの時あの頃の所業とふるまいそれ自体を、私は受け入れることができていない、許すことができていないのだと思う。だから、今とこれからの自分に対して、あの頃のふるまいを繰り返させたくない、決して繰り返してはならないという気持ちは、すごく強かった。


例えばいつも、自分にこんな風に言い聞かせていたような気がする。
「あのときの私には、見えていなかったことがそれはもうたくさんあって、そのせいで失敗したり、自分と周囲の人々の双方にとって、苦しい結果を招いてばかりいた。あのときはそうするしかなかったのだとしても、今後は二度と同じことをしたくない。ひとも自分も不幸にしてしまうような、そんな人間のままでいたくない。だから、今とこれからは、大事なものをちゃんと大事にできるように、がんばろう。そのために、心を尽くそう。」

こういう小さな決意を積み重ねているとき、過去を否定しているつもりはなかった。だけど、これまで大事なところで行き詰まってきた原因は、もしかするとこの辺りにあるのかもしれない、と思いはじめた。


あの頃私はなぜあの場所にいたのか、今はよくわからない。
なぜあんなところであんなことをしていたのか、うまく説明できない。
どうしてあの人にあんなことを言ったのか、その理由を思い出せない。
あのときなぜ、どうして、あんな風にしか振る舞えなかったのか……

当時の自分を「理解の及ばない腫れもの」のように扱い、外部化してしまうと、もはやそれは他人事に等しい。私はこれまで、あの時あの頃を思い出したくも話したくもなかったし、仮に当時について聞かれても「さあ、なんででしょうねえ…」としか答えようがないと思っていた。
だって、あの時あの行為の恐ろしさに、今の私は耐えることができない。あのふるまいの愚かしさと愛のなさに、むしずが走る。どうして人に対して、あんなにも心のないことができてしまっていたのか…そんなもの、理解したくない、理解できないほうがましだと、私は思っていたんだ。


でも、そうやって過去のある部分を自分の構成要素として認めることを拒んでいると、今と未来を生きることが難しくなってしまう。なぜなら、その部分を含めた、ありとあらゆる過去の帰結として「今」があり、「今」を糧として未来は描かれてゆくものだからだ。
だから私は、あの時あの頃の所業とふるまいについての記憶を、書き直す必要がある。あの時あの頃のじぶんと、仲直りしなきゃならない。

ずっと許してあげられなくて、ごめんね。見ないふりしかできなくて、ごめんね。うまくはいかなかったかもしれないけれど、それでもあなたはあなたなりに、がんばっていたのに、それを認めることができなくて、本当にごめんね。


やさしい人になりたい。そのためには強くならなきゃ。吉野源三郎さんは「英雄的な気概を欠いた善良さは、空しいものだ。」と書いていた。倒れても、へこたれても、つぶれてぺしゃんこになっても、起き上がってまた、やさしくあることのできる人間になりたい。
たまにはメソメソしたって構わないから、次の日は笑えるようになろうね。