見出し画像

240424

最近気持ちの整理のために言語化は大事だと言われて改めてそうだなと納得しつつ、そのくせあまり実践できていないので、感心しているだけでは意味がないと反省した。

職場の人(Aさん)に怒りを覚えてしまうので、原因を書き出してみようと思った。


  • 頭の中がぐるぐるしている時期だから
    とりとめのない、その場限りの感情を必要以上に深堀りしてドツボにはまっている気がする。それでも頭の中で追いかけ続けてしまうから、気持ちの切り替えができずにいる。

  • 仕事に対する姿勢を信用できない
    元々疑問符がつくことが多かったけれど、昨日業務を一緒に進めたときの言動を見て不信感がより強まってしまった。冷静に振り返ると単純な誤解が含まれている可能性があったり、好意的な解釈ができる余地もある気はするけれど、その場では話す気力が失せて、今後できるだけ関わりたくないと思ってしまった。

  • Aさんに自分の仕事の邪魔をされている(と感じている)
    立場は平等なはずなのに担っている業務量や質に違いがある。それは相手を問わず当然だとして、Aさんができない部分を私は放置できないので、結果的に自分の仕事が増える形となっている。これに関しては相手を責めるのはナンセンスだとは自覚していて、どうしても業務量を増やしたくないなら無視すればいいだけだと思う(自動的に仕事が回ってきて断りようのない部分もあるにはある)。別に上司からカバーしてくれと頼まれたわけでもないし、業務の質が落ちたからと言って私が解雇されるわけではない。

    でも、おそらくここが私の一番のネックとなっていて、どうしても見過ごすことができない。仕事を通じて関わる他者に嫌な思いをさせたくないし、基本的に業務は共同作業なので、Aさんの仕事のレベルが低いと私の仕事の質も落ちる。それを許容できないから仕事を増やすわけだけど、単純にきついし、今度はハードワークゆえに業務の質を落とさざるをえない場面も出てくる。

    要するに、私は自分の仕事の質とレベルを一定の水準以上に保ちたいし、何ならより良くしていきたいと思っている。自己満足でも構わないから、自分にとって「いい仕事」をしたい。でも、できない。Aさんの仕事ぶりは、私のこうした願いと望みの妨げとなっている。だから怒りを覚えてしまう。

    今気づいたけど、これはAさんだけに原因を求めすぎているのかなと思った。そもそも所属組織の体制の危うさ、杜撰さに呆れ果てていて、そこで自分基準の「いい仕事」ができる可能性が低いという現状がある。分かりやすくAさんを標的にして、普段感じている憤りをぶつけている部分もあるのだろう。

    いずれにせよ、私は一時的にでも構わないから、「いい仕事」をするのを諦めた方がいいのかもしれない。これまでの自分にとっての「いい仕事」にこだわっていると、そこからかけ離れた現実を見てストレスがたまる一方だし、発狂しそうになる。

  • 疑問のなさに驚いてしまう
    人と接する仕事で私は日々葛藤しているし、どうしたらもっとうまく関われるだろう、なぜここはうまくいかなかったんだろうと疑問や課題がどんどん出てくる。Aさんにはそうした類の疑問や苦悩がほとんど見当たらない。Aさん自身の感情の起伏(怒られて悲しいなど)は見て取れるけれど、関わる人とどう向き合うかについてのAさんなりの視点や意見が全く見えてこない。本人の発信がないだけでなく、言動の端々から本当に特に考えがないのかもしれないという印象を持ってしまうことが多い。

    もちろんよくある話で、本当は色々考えているけど「言いづらい」とか「話しづらい」とかあると思う。そうであるとしても、少なくとも仕事で関わる他者とAさんとの関係性やそこで生じる出来事を通して、Aさんが何をどうしたいと思っているのかが全く伝わってこない。何も考えずに他者と接するって逆に難しい気がするけど、どういう心理状態なんだろう。私の中の暫定解は、「自分のことで精一杯で、他者のことを考えている余裕がない」となっている。Aさんの様子を見ていて仕事したくないんだろうな、きついんだろうなとは察されるけれど、諸々踏まえて残念ながら個人的にこれ以上Aさんに寄り添える部分はなさそうだ。

  • 自分の心の狭さを認めたくない
    Aさんは入職がほぼ同時期でかなり年下の人。年齢や業務経験を踏まえて自分の方がきついのは当然だと思ってこれまでやってきた。色々と気が利かなかったり社会常識が欠けていたりするので、上司からの当たりは徐々にきつくなっていた。私は単純にそういう空気の中で仕事をするのが嫌だったし、若干の同情もあったので、できるだけにこやかに、努めてフォローするように心がけて接してきた。

    でも、年度替わりの忙しい時期で私自身もどんどん余裕を失い、業務の最低ライン(事故を起こさない)を死守するのに精一杯だったしそれが最優先事項だと思ったから、Aさんをケアしている暇はないという結論に至った。若いから十分な教育を受けられない環境で可哀想だという気持ちもあるけれど、仕事で関わる他者の利益の方を優先するのは致し方ないと思うようになったし、そもそも自分自身が潰れかけていたので、人を思いやる余力がなかった。

    余裕を失うと他者を思いやれない。これが自分の現実だし、聖人ではないただの人間である以上、仕方のないことなのだと思う。それなのに私は自分の人としての小ささを残念がっている。その方がよほどおこがましいことだろうに。若い人に優しくできない、怒りを感じてしまう自分を受け入れがたく感じている。だからこんなに駄文を連ねている。自分はそんなにいい人じゃないし、若い人に優しくできるほどの余裕もない。それなのにいい人でありたがる気持ちを捨てきれなくて、もやもや(怒りだと思っている感情の一部)しているんだろうな。

    あと、元々(ある時期から)私は色々なことを上手にできない側の人間だと自覚してきて、できない人のできなさを責めたくないと思ってきたはずなのに、結局自分がそれをしてしまっている気がして罪悪感を覚えている。自分に言い訳をすると、私は決して仕事のできなさを責めたいわけではない。ミスはあって当然だし、色々分からなくても難しいよね、どうしたらいいだろうね、ってオロオロしながら進むので全然いいと思っている。私が許せないのは、仕事のできなさ自体ではなくて、できなさに対してどんなベクトルの感情・意思も見いだせないことなんだと思う。言い換えると、私から見たAさんの仕事のできなさは、Aさん自身にとって自分事、自分が今まさに向き合っている問題ではないように見える。だから、私自身のあれこれの苦悩ときつさとが全くの徒労に思えて、Aさんに怒りをぶつけたくなるのだろう。


書いたらちょっとすっきりしたかな。
今日も一日無事に過ごせますように。