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210329 人付き合い6

頭の中がぐるぐるしてるときって、書くのと書かないのと、どっちがいいのかたまに分からなくなる。今はどちらかというと「書いた方がいい」という感覚が優勢だから努めて書くようにしていて、ときには真逆の反応を示すこともある。書き出したら多少はスッキリするけれど、ほぼ例外なくろくなことは書いてないし、人様の目に触れても決して愉快にはなりそうにない文章を果たしてどこまで公の場に晒してよいものかと、悩ましく思えてきたりする。

今のようなタイミングで過去を振り返っても痛々しい自虐に走りがちなのは経験上よく分かっていたはずなのに、懲りずにまた過去の話に手を出してしまった。書いたことを半ば後悔しつつ、少し時間が経つと「不穏な気持ちのときの自分は、こんな風に過去を(歪めて)捉えているのか」という気づきも見えてきて、せめてその発見は無駄にしたくないなと思った。

私は過去に経験した人付き合いにおいて、過剰に空気を読もうとする心理と、主観的な価値判断(好き嫌い、わがまま)を優先したがる本心との間で板挟みとなって葛藤・混乱が生じ、最終的には大体の場面で後者を優先し、人と深く関わることから逃げてきたのだと思う。

例えば、自分が所属しているコミュニティにおいて、ある人物が高く評価されており、他方で私自身はその人に全く興味関心がなく、特に評価に値する人物ではないと考えていたとする。このとき、コミュニティ内の平穏無事なコミュニケーションに配慮したがる自分は、自分の感覚を周りに漏らして周囲の人を不快にさせてしまうことを恐れ、自分の感情に蓋をしようとする。これに対して、素直な気持ちや感覚を尊重したがるもう一人の自分は、嘘をついたりごまかしてまで他者に迎合するのは無意味なことだと考える。両者がせめぎ合った結果、コミュニティ内の平穏と自分の感覚の両方を守るために、私自身がそのコミュニティから身を引くのが最善だという答えを導き出すことになる。

私の数少ない人付き合いの結末は、おおよそこのパターンに集約できる。そして、このパターンを繰り返している限り、人と深いコミュニケーションをとったり、新たに「友達」を作ったりすることはできないだろう。コミュニケーションの中で自分や相手の「本音」に踏み込むのは勇気がいることだし、ときには失敗もするだろう。それでも、どこかのタイミングでそれに挑戦しなければ永遠に距離は縮まらないし、いずれはそのような上辺の関係に疲れて意義を見失ってしまうことになる。

私の読んでいる本を見て笑った彼女にも、私が愛想笑いを返したりせずに正直に本の良さを語っていれば、案外会話が広がっていたかもしれない。各々の場面がどうなるかは誰にも分からないことだけど、「この人とは合わない」とすぐに決めつけて一線を引いてしまうのは良くない癖だなと思った。

それから、私が読もうとしている「空気」とか守ろうとしている「平穏」って、何なんだろうと思った。私は一体、誰の何に配慮して萎縮しているんだろう?「人との会話や関わりは、常に和やか・穏やかなものでなければならない」という謎の観念が強すぎるのかもしれない。コミュニケーションに正解はない。もっと他者にも自分にも、おおらかな気持ちで接することができればいいのにな。

全然まとまりのない文章。もしもこれが会話の一部だったら、「こんなグダグダした話に付き合わせるのは申し訳ない」と考えて、私はきっとすぐに口をつぐんでいただろう。そういう場面で少し勇気を出して、自分の考えに言葉を与え、それを相手に伝える努力をすること。これが第一歩になるかもしれない。「友達」とか「人間関係」とか、本当に難しくて分からないことばかりだな。これまで逃げてきた分、小学生からやり直すくらいのつもりで、一からがんばろう。