210722 分かる

最近は目の前のことで手一杯。文章を書く暇がないのか、そもそも書きたいことがないのか…どちらにせよ、何となく書くことをどうでもいいと感じている。呑気に自分の気持ちを追いかけている暇があったら、「そんなこと」をしている時間があるなら、もっと先にやるべきことがたくさんあるのだから、それをがんばらなきゃと感じている。そうして実際に目の前のことをがんばれているのは、全然悪いことじゃないと思う。この調子で、前を向いてがんばってほしい。

ただ、書き方を忘れかけているのは少し心配だ。日記は毎日続けているけれど、最近は本当に走り書き程度のものばかり。一つの物事に集中して取り組んでいると、その他のことに気持ちを向ける余裕を失ってしまう。これまでの経験上、集中力が途切れる頃になってようやく、それまでずっと息を止めていたことに気がついて、「やっぱり書く習慣は途絶えさせてはいけないな」と思い直すことが多い。今はまだその反省の段階には至っていないけれど、過去のパターンを踏まえると、先回りして適当にでも何か書いてみた方がいい気がしたから、ここに戻ってきた。

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二週間ほど前、「分からない」と言うのはもうやめようと思った。少なくとも自分自身に関する事柄について「分からない」と言うのは、やめることにした。分からないときに「分からない」とうめき続けても分かるようにはならないし、そうこうしているうちに本当は分かっていたものまで分からなくなってしまう。分からないときでも、「私には分かる。今すぐじゃなくても、必ず分かるようになる」と言ってみる。下手な自己啓発みたいでなんか嫌だ…とか思わない。思ってても、言わない。分からなくても分かるふりをしていれば、そのうち分かるようになる。分かるようになったと思えなくても、「自分は事の仔細をよく承知している」という顔をして日々の出来事を消化するようにする。そう心に決めた。

すると徐々に物事を前進させる力が湧いてきて、一度流れができればあとは展開に身を任せて、次々に出てくる「やるべきこと」を一つずつこなしていけるようになった。つまり、今の私は自分が何をどうすればいいのか、自然に分かっている。これでよいのだと思う。これでよいのだと、私には「分かる」。

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思えば私は、分からなくあることに対して忠誠を誓いすぎていた。本当は何も分かっていないのに「分かる」と言ってしまうことに、まるで罪を犯したかのような後ろめたさを感じてきた。「何事もよく分からない」というのが一番確かだと思えることで、分かっていないのに分かるふりをするのは不誠実である、日々分からなくあり続ける忍耐の力こそ重要なのだ、とさえ考えていた。これは、ある一面に限れば今も変わらぬ思いではある。要するに、「丁寧に根気強く向き合い続ける力がなければ、現実に起きていることを本当の意味で知ることはできない。片手間で拾い集めた知識の断片を並べ立てて、現実を分かった気になってはならない。現実を構成する要素は、自分が思うよりもずっと複雑で多様なのだ」。こうした戒めの心が強すぎたせいで、私は私を迷走させてしまっていた。

言うまでもなく、そんなことに誓いを立てていても何の得にもならない。ずっと分からない状態でいると次第に生命力は衰え、何かを生み出す力は削がれてゆく。そうして自らの手で己の生きる気力を奪い続けることの虚しさと愚かさとをようやく認め、変わらなければと決意するに至ったのだろう。

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本質的には「何事もよく分からない」というのが偽らざる本音だけれど、それを言い続けても何も生み出せないし、生きていけない。私は自分を殺さずに生かす方法を身につけなければならない。だから、最も確からしいことは手放して、不確かなものの上にハリボテの確かさを築いてみようと考えた。〈確かさ〉はハリボテで事足りるし、むしろハリボテに徹するべきであるとも言える。ハリボテの良さは、実質を欠くがゆえに外面はいつでも修正が可能なところにある。

揺らぎのない〈確かさ〉を求めると、それが通用しない現実に直面したときにいとも簡単に立ち行かなくなってしまう。けれど、ハリボテの〈確かさ〉であれば、それに不都合が生じれば少し手を加え、別の〈確かさ〉を整え直せばよい。そうして不確実なものの上に、いつでも変形可能でしかも盤石な足場をこしらえるのだ。なるほど「矛盾の上に立って歩く」とは、こういうことだったのか。それで何とかなれば御の字だし、何ともならなくなったときは、また何とかする方法を探す。私にはその方法が、必ず「分かる」。

分からなくあることにしがみつき続けてきた私の時間は、単に社会的孤立から生まれた「無駄」の極みとも言える。ごく簡単に言えば、適度に助け合える身近な人間関係を築きさえしていれば、こんな「無駄」が生じることはなかったのかもしれないと思う。だけど今さらそれを嘆いても、それこそ「無駄」の最たる行為であることも、骨身に染みる程よく学んできた。だから今は、後生大事に守り抜くつもりだった「分からなさ」を放棄した後、私がどんな道をゆくことになるのか、予測不能のエンタメを見守るような気持ちで楽しんでみたいと思っている。私は、私がこれからどうなるのか知らない。知らないけど、「分かる」。