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210609 他者への期待と距離感

1.なぜ期待を持つことは不健全だと考えるのか

他人に対して期待を抱くのは、基本的に不健全な行為だと思う(ようにしている)。ここでいう「期待」とは、「相手の言動に関する自分の個人的な願望を満たすために、その願望を相手に押し付ける行為」を指している。

例えば、あるスポーツ大会に出場するAさんに対して、Bさんが「あなたは絶対一番になれる!私は信じているから頑張って!」と声をかけたとする。Aさん自身の望みが「大会で一番になること」であれば、これは思いやりに満ちた激励の言葉になる。AさんとBさんの願望が一致していれば、ここに問題は生じない。しかし、Aさんの一番の望みが「大会を楽しむこと」にあり、順位に対するこだわりを捨てようと努めていた場合、Bさんの発言はAさんにとって重荷に感じられるだろう。

つまり、他者(A)に対する私(B)の期待の表明は、両者の願望にズレがある場合、他者自身の望みとそれを躊躇なく表現するための意欲を損なわせる可能性がある。そして、他者の願望を正確に把握することは困難である(他者自身でさえ理解していない)場合が多いため、私は他者に期待したり、それを無邪気に言葉にすることに抵抗を感じる。

2.期待を持つことに対して慎重になる理由

他者に期待を抱くことに対してこれほど慎重になるのは、自分の過去の振る舞いに対する反省に由るところが大きい。子どもの頃から、私は人間関係に満足を見出だせないことが多かった。それはひとえに(他者というよりも)人との関係のあり方に対する私の期待が大きすぎたからだ。

特別な不幸を経験したわけでも、手酷い裏切りに深く傷ついたことがあるわけでもなく、コミュニケーションにおいて「人と関わり合えた」とみなす判定基準のハードルが、ものすごく高い。傍目に見れば十分に考えや気持ちを交換し合えている関係であっても、主観的にはその人との間に距離を感じていて、自分が孤立しているように思えてくる。これを「理想が高い」と言えば少しは聞こえがいいけれど、要するに強欲だったのだと思う。

関係に対する期待は、関わる相手に対する期待へとすり替わる。だから、自分の強欲さを自覚して以降は、できるだけこの期待を打ち消し、それが相手に伝わって不快な思いをさせることのないようにと、自分なりに努力してきた。実際に期待さえなければ、おおよそあらゆるコミュニケーションに満足できた。そこで交わされる言葉の意味内容はそれほど重要ではなくて、破綻せずに言葉のキャッチボールができればそれで良いと思うようになり、これが健全なコミュニケーションの形だとさえ感じてきた。

3.期待を持たないことで生じる壁

他者に期待しない、つまり他者の言動に関する自分の望みを持たず、たとえ望みがあってもそれを伝えない。私がそれにこだわるのは、他者には他者自身の望みを一番大事にしてほしいと思うからだ。加えて、期待を持たないのは自己防衛の手段でもある。期待が裏切られたときに生じる失望を回避できるからだ。こうして人との関係に対する自分の過剰な期待を抑えてコントロールするように努めてきた結果、私は浅く無難に人と関わる方法を体得した。社会生活をこなす上でこれも大事なスキルの一つだと思うし、この力を身につけてきたことに後悔はない。

ただ、この方法だけを徹底していると、他者との距離は永遠に縮まらないのではないかという気がしてきた。「他者の望みを尊重する」という大義のもと、相手のテリトリーには必要以上に踏み込まないし、私の望みも安易にひけらかすことをしない。相手との関わりが限定的なものであれば、これでも問題ないと思うけれど、このタイプのコミュニケーションから新たな発見や気づきが生まれることは、ほとんどないだろう。

それで、私は一体何をどうしたいのか?

残念ながら今はまだどうすればいいのかよく分からないし、だからこうして書くことで何かヒントを掴めはしないかと模索している。ただ一つ思うのは、私は人との関わりに伴う不和や衝突、あらゆる面倒事と不確定要素に対して、もっと寛容になった方がいいということだ。争いと対立を恐れるあまり、何か大事なことを見失っている気がする。私の期待は相手の望みを踏みつけるかもしれないけれど、その期待によって相手が自覚していなかった望みに気づく可能性もある。期待は裏切られるかもしれないし、逆に期待以上の何かに恵まれることだってあるだろう。他者と自分は何らかの形で相互に影響を与え合い、その結果を前もって予測することは難しい。しかし、一歩踏み込んでみなければ何も生まれようがないことだけは確かだ。

思いつくままに日記を書いていると、振り返ってみれば人間関係のことばかり考えていることに気づく。同じようなところを行ったり来たりしている。コロナ以後は動きたくても思うように身動きがとれない状況が続いているから、行動できない分あれこれ考えを巡らせる時間が増えたのかもしれない。ここで長々と書いた内容も、色々な人と関わるうちに自然と最適な距離感が分かるようになって、考えるまでもなく答えが定まる話のような気もする。今の自分に許されている手段が書くことだから、今はとりあえずそれに頼っているだけだ。状況が変われば、その時々にベストな方法でがんばれたらいいなと思う。