200610 〈TED〉マイケル・パトリック・リンチ: あなた固有の視点を超越し真実を見い出す方法



話者によると、「共通の現実が存在する」という概念の受容を阻む要因の一つとして、「真実への懐疑」というものがある。この「真実など存在しない」という主張に至るまでの理屈は、以下のとおりである。

「我々は自分が持つ視点の 外には出られないし バイアスから逃れられない 逃れようとするたびに 自分の視点に基づく情報を さらに得るだけだ」 さらに こう続きます 「だから我々は 客観的真実が幻想で どうでもいいものだと 認めてしまった方がいい 何故なら真実の正体は 知り得ないか そもそも真実など 存在しないのだから」
(Transcript/日本語訳より)

この考え方は古代ギリシャの哲学者・プロタゴラスにまで遡ることができ、プロタゴラスは「人間は万物の尺度である」との考えから「客観的事実は幻想である」と言ったという。
しかし、こうした「真実への懐疑」は、確実であることの難しさと真実の不可能性を混同しており、哲学の名を借りた自己正当化に見える、さらには専制につながりうる危険な考えである、と話者は主張する。

自分自身を省みると、私はこれまで「客観的事実は幻想である」という見方にかなり依存してきたように思う。でも、このトークを見て、そのような見方は「真実への懐疑」を盾として、見慣れた世界に安住する自分の不誠実な態度を肯定し、「真実」の探求を怠らせる危険を孕んでいるのだ、と感じるようになった。
だからといって「共通の現実」がどこにあるのか、私にはまだよくわからないし、そこに辿り着くための道筋を示せと言われても、きっと困ってしまう。けれど、少なくとも、今の自分が答えを持たない難問を手っ取り早く片付けるために、そのための都合の良い手段として「真実の不存在」を利用してはいないか、常に自分に問いたいと思う。


追記(200612)
最も明白な「共通の現実」はなんだろう。今思いつくとすれば、それは「死」の不可避性と予測不可能性。より広い意味では「人間の意思や力、技術では制御できないこと」=物理や自然の法則など…?
個々人の日常の中で、これらがどの程度鮮明に差し迫る事実として浮かび上がっているかには、大きな差があるだろう。この差を埋めること=「共通の現実」の理解といえるのだろうか。