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230818 期待せずに一緒にいる

昔から人付き合いが好きになれなくて、ある程度の年齢になってからは、その原因が自分の大きすぎる期待にあることに気づくようになった。他者への期待にも色々あるだろうけれど、私のそれは他者の行動をコントロールしたいというよりも、どちらかというと恐らく他者との関係性に対する期待に近かった。

例えば、誰かと会う約束をしていたとして、相手が約束の時間に来なかったとしても、私はそれほど失望しない。遅れずに来てくれることを多少は期待していても、それが裏切られたからといって特別気にはしない。だけど、会ってどんな時間を過ごすか、そこで相手との間にどのようなコミュニケーションが生まれるかについては、自分で気づいている以上にぼんやりとした、けれど確実な期待があって、そのイメージに合っていなければ、少なからず哀しさや虚しさを感じることが多かった。もちろん相手に非がないことは百も承知しているので、相手を責める気にはならず、かと言って自分の妄想に近い願望を消すこともできず、結局人から離れることが一番無難で疲れない選択になってしまっていた。

他者との間に十分な距離があれば期待を抱くこともないので、期待を裏切られたと感じることによるストレスや落ち込みは回避することができる。でもそれは他者から孤立することであり、どことなく付きまとう孤独感に気づく度に、このままで良いのかと迷う気持ちを持ち続けていた。


これまでの私は、「他者に期待しないこと」と「他者と関わらない、関心を持たないこと」とがほぼイコールになっていて、肝心なところを見落としていたのではないかと思う。

心穏やかに他者と関わるために、相手に期待しないこと自体は大事だと思う。だけどそれは、心の中で一線を引き、遠くから眺めるようにして他者と関わることを意味するわけではないはずだ。それでは、実際のところ私は期待を手放していることにはならず、捨てきれていない期待を満たせない現実を直視しないために距離を保っているに過ぎない。

身近なところで深く関わりながらも、相手には期待しない。それがどんな感覚なのかが分からなくて、ずっとモヤモヤしていた。困っているときは互いに助け合いたいとか、大事な問題についてはきちんと話し合いをしたいとか、そうした関係性に対する期待や理想は、あくまでも私自身の期待や理想でしかない。相手が私に対して何を望み、何を期待しているのかは分からないし、分かったところで私はそれに応えられないかもしれない。そうだとすれば、近くにいて時間を共にすることに何の意味があるのか。そんな気分になることが多くて、距離を近づけたり保ったりすることに疑念と不安が生まれやすかった。

最近やっとそのモヤモヤから脱することができた気がする。


期待を抱かずに人と深く関われるなら、それが一番だと思う。だけど、恐らく私はこれからも勝手な期待を抱き、それが叶わない現実に何度も直面することになるだろう。そこできっと感情の浮き沈みは生じる。ただ、今後はそこで味わった苦しみや悲しみの原因が、私自身の期待にあることに気づけるようになりたい。

私は、互いの期待を満たし合うために、相手と一緒に過ごすのではない。誰かと深く関わることの意味は、期待を満たし合うことにはない。この気づきを忘れないようにしたい。私は、私自身の期待を乗り越えて、ただ相手と一緒にいること、そこで共に経験することを楽しみ、大事にできるようになりたい。それが私自身の一番の望みだと、自信を持って言えるようになろう。

疲れていると期待に翻弄されて大事な部分を見失ってしまいやすい。迷いだしたときは今日のこの感覚を思い出して、一緒にいることそれ自体を疎かにしてしまわないように、それを一番に大事にできるように、自分の日々を見直したい。失敗はするだろうけど、それに気づいて、ちゃんと「本来の道」だと自分で決めたところに戻ってこれるようになりたい。