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240204 楽しさの種類

先日久しぶりに本屋さんで特に目的もなく店内を眺め歩いていたら、100分de名著でローティが取り上げられているのが目に入って思わず感激してしまった。テキストの著者、ガイド役の朱喜哲さんのことは初めて知ったけれど、『偶然性・アイロニー・連帯』は専門家の目を通じて一般向けにどのように要約、紹介されるのかに興味が湧いた。迷わず手にとり併設カフェで一気読みした。読み進めるうちに忘れていた記憶が蘇り、これまで知らなかった背景にも触れることができて、ワクワク感、爽快さ、無限に思考が広がっていくようなエネルギーを自分の中に感じられて、単純に楽しかった。こんな気持は久しぶりだった。


ほとんど本を読まなくなって久しい。最近よく思うのは、以前は自分のことを多少なりとも「賢い」人間だと思いたがる自意識が強くて、賢いふりをすることに必死だったなということだ。今もそうしたプライドは完全には消えていないだろうけれど、随分和らいだのかなと思う。『君たちはどう生きるか』を観たときに、特にそのように感じた。

二十歳前後までは『もののけ姫』が私のバイブルで、アシタカは私のヒーローというよりもロールモデルに近かった。『風立ちぬ』の公開当時は、主人公と自分とを重ね合わせて泣いた。そして『君たちはどう生きるか』では、主人公を完全なる別人格、遠い世界の向こう側にいる人、ぐらいの気持ちで観ていた。

時代は違えど境遇を見れば全く別世界の人と見るのはむしろ当たり前のことなのだろうけれど、これは私自身にとっては大きな変化だった。簡単に言えば、自分を「特別な何か」が備わっているオリジナルな存在だと思ってしがみつきたがる若さと未熟さを、少しずつでも捨ててこられたのかなと思うからだ。私はそんなに賢くなかったし、特別でもなかった。これからも日々老いて能力を衰えさせてゆきながら、特に何事もなすことなく(あるいは、なしたとしても)死に至る。さらに言えば、それは特段悲しむべきことではないのだと、自然と受け入れられるようになったのではないかと思う。

以前は自分の中に非凡さを見出さずして生きた心地がしなかった。一つでもユニークな何かを持っていなければ、生きている価値がないかのように感じていた。他人を上から見下ろしたいとか顕示欲というよりも、いわゆる自己肯定感に関わる問題で、何も持っていなくても生きていてよいと自分で自分に言ってあげることができない状態だったから、賢くありたい、賢くあらねば、と背伸びしていたのかなと思う。

『君たちはどう生きるか』は、決して私自身の物語ではない。だからこそ、「私はこうした。それで、お前はどうなんだ」と強く問いかけられている気がした。


冒頭の話に戻ると、一労働者としてあくせく働き税金を納め、ご飯を食べて寝る日々で精一杯の私にとって、今後本は疎遠になる一方だろうなと思っていた。賢いふりにも疲れたし、そうする必要も感じなくなっていた。だから、久しぶりの高揚感に少し戸惑っている。別に読書してはならない理由はないのだから、心に余裕があるときに楽しむ分は構わないだろう。

ただ、私が久しぶりに感じたこの喜びは、自分ひとりでいるとき特有である気がしてならない。誰かと共有するものとは思えないし、これに近い興奮を味わったりのめり込んだりするとき、私は恐らく身近な人と過ごす時間を疎かにしてしまう。一人で深める楽しみと、誰かと何かを共有する時間は、本来どちらか一方を選んだり、優劣をつけたりするものではないとも思う。だけど、今の自分を振り返ってみると、どうしても両者が矛盾するように思えてならない。


先日強く誘われて、こどものとき以来初めて某人気テーマパークに出かけた。休日の過ごし方として、自分では絶対に提案することのないであろう選択肢の最有力候補だ。元々はアンチよりの無関心層だったけれど、一つの価値観に固執したくないとの思いがあったので行くことに決めた。余暇を費やす以上は何がそこまで人々を魅了するのかを探ってみようとの目的を持って臨むことにした。

人気すぎてノープランでは十分にコンテンツを消化できない可能性があるらしいと知り、事前の情報収集を徹底して園内マップを頭に叩き込み、課金をいとわず当日は極寒の中震えながら開園2時間以上前から並び、栄養ドリンクと酔い止めと胃薬を駆使して何とか予定をこなすことができた。結果的に行ってみてよかったなと思っている。私が経験的に育んできた「楽しい」とは全くの別物だけれど、あの場所を「楽しい」と思う価値観は想像できたし、何となく触れることもできた。感覚的にはあまり分から(共感でき)なくても、想像(理解)はできる。そう思える経験ができたこと自体が、一番の収穫だと思う。


馴染みのある楽しさと、新しくて新鮮な世界。どちらも大事だし、できることなら両立させたい。でも、今の私の中では両者はあまりにも遠く感じられて、どちらかを経験しているとき、他方の価値はほとんど忘れ去るしかない。さらに言えば、一方の良さを実感しているとき、他方は無意味で不要なものとさえ思えてしまう。この状況に、どう折り合いをつければよいのかが分からない。

今は馴染みの楽しさを思い出して頭の中の一人遊びを満喫したがっている。それは確かに私に喜びと活力を与えてくれるけれど、どうしても独りよがりな感が否めない。この世界を無理に人と共有する必要はないだろうけど、せめて全くの孤立は避けるように、極端な行動は控えなければと思う。これからどうしていくかは、ゆっくり考えてみたい。