見出し画像

【西武ライオンズ 今日の見どころ】カウントダウン「LEGEND GAME 2024」#11 行澤久隆編

3月16日(土)に開催される、西武ライオンズ初のOB戦「LIONS CHRONICLE 西武ライオンズ LEGEND GAME 2024」。新たな参加選手も発表されて、ますます当日が待ち遠しくなりました。

このページでは、出場が予定されているライオンズOBたちの、一味違った現役時代のエピソードや、玄人好みする記録などを紹介していきます。

行澤 久隆(ゆきざわ・ひさたか) 

内野手 右投げ・右打ち 1953年7月11日生まれ
ライオンズ在籍:79途中~88年(選手)、
        92~06年(コーチ)、2010~12年(2軍監督)
通算成績:1004試合出場 1673打数 385安打 打率.230 38本塁打 154打点
背番号:8(79途中~87年)、22(88年)、
    87(92~06年)、81(10~12年)

PL学園から中央大学に進み、76年に日本ハムファイターズに入団。「野球珍記録・珍プレー」といった話題になると、必ず取り上げられるプレーで知られている。

プロ1年目だった4月29日の近鉄バファローズ戦。8回裏1死満塁のチャンスで、行沢の打球は後楽園球場のレフトスタンド最前列に飛び込んだ。これがプロ3打席目で出た初安打。しかもそれが満塁本塁打とあって、相当な喜びだったのだろう。

当時の報道によれば「まるで猪みたいに突っ走って」(大沢啓二ファイターズ監督)全力疾走していった行沢は、気がつけば一・二塁間で打球の行方を見守っていた一塁走者を抜き去っていた。

追い抜いた行沢にはアウトが宣告されて、記録はシングルヒットに(1死だったため、3打点は認められた。もし2死からだったら、追い抜いた時点で3アウトチェンジなので、その前に本塁を踏んでいた走者の得点のみが認められる)。プロ初安打が、幻の満塁本塁打となったのだ。

こんな派手な話題を提供したのとは裏腹に、プレースタイルは地味で堅実。PLで鍛えられた、安定感のある守備と、バントや右打ちをしっかりこなす仕事人タイプ。1年目からショートのポジションを争った。

埼玉移転1年目の79年、西武ライオンズ球場の杮落としとなった4月14日のファイターズ戦で、ライオンズは球団ワーストタイ記録となる1試合7失策の守乱を露呈。この一戦に象徴されるように、前期シーズンの65試合で合計72失策。チームの総失点351に対して、投手の自責点が295と、無駄に与えた失点が50以上あったのだ。

特にレギュラーが固定できていなかったショートの緊急補強にと、白羽の矢がったのが行澤だった。前期終了間際の6月21日、76年の首位打者だった吉岡悟との交換トレードが成立すると、根本陸夫監督は後期65試合すべて、行沢をショートのスタメンで起用する。後期のチーム失策は60へと減った。

81年に石毛宏典が入団してからは、守備固めが主な役割になる。その石毛が就任直後の廣岡達朗監督から酷評されて立腹したものの、自分と同じポジションを守るライバル選手が、廣岡の指導によって明らかに上達している。その姿に危機感を覚え、廣岡に頭を下げて教えを請うた、という有名なエピソードがあるが、そのライバルこそが行澤久隆だった。

セカンド、サード、ショートと、安心してどこでも任せられるユーテリティプレイヤーで、廣岡監督時代はリードした試合の終盤になると、サードのスティーブに代わって行沢が入り。サードのスティーブがファーストにまわるのが、定番の守備固めだった。

84年には、このシーズン限りで引退する山崎裕之に代わり、主にセカンドでライオンズ移籍後最多の105試合に出場。75試合に先発起用され、自己最高の9本塁打と往年のパンチ力を披露したが、翌年には辻󠄀発彦がレギュラーへと成長するのを待っていたかのように、再び名脇役の役割を全うする。

88年限りで現役を引退。翌年から3年間スカウトを務め、92年から守備・走塁コーチに。一時編成部に移ったが、2010年からは2軍監督を3年間担当して、若手の成長を見守った。

トレードで加入した1979年6月から2012年に退団するまで、じつに32年半もの長きに渡って、ライオンズに籍を置いた功労者だ。

行澤 久隆 年度別成績


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?