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III. 黙示録の7シリーズ(6-16章):3セットの比較・相関関係 ②封印・ラッパ(備え)と鉢(完遂)

前回は、封印とラッパ・鉢の幻とでは、提示の契機が子羊と御使いたちと異なることを挙げ、巻物の内容については封印をすべて解かねば明らかにならず、ラッパ・鉢の幻を待たねばならないと記しました。子羊が封印を開くにあたっては、巻物を取り巻く世界、この世がどのようなものか、そこで繰り広げられる様々な戦い、その中での聖徒らの嘆きと祈り、そして、最終的な神と子羊の怒りの日の到来がパノラマ的に示されています。では、7つ封印がすべて解かれて明らかにされる巻物の内容(御使いによってヨハネに示される黙示録の”本題”)はどのようなものでしょうか? 

区分はラッパと鉢(そしてその後~最終17-22章へ)です。

まずラッパ! ラッパは旧約聖書では備えの時を示唆します。特に、7つのラッパが想起するのは、イスラエルの民がエジプトを脱出して、約束の地に足を踏み入れたエリコでの戦いです(ヨシュア記6章)。エリコの戦いでは、戦士たちは7日間町の周りを巡り、最後に7本のラッパを吹きならし、鬨の声を上げただけで、城壁が崩れ落ちました。(その際、ラッパ(角笛)の後に続いたのが契約の箱(主の箱)でした。)

民は自ら戦うのではなく、祈りをもって備え、遂に神ご自身が壁を壊し、敵を打ち倒す――非常に劇的な展開です。黙示録においても、7つのラッパから7つの鉢に至るまで、聖徒らの祈りは香とともに天に立ち上り、充満の時を待ちます(cf. 8:3-5)。そして、第7のラッパで主の支配の宣言がなされ(11:15-18)、神殿が開かれ、契約の箱が明らかになるのです(11:19)。先取りすると、この(新しい)契約に沿うように、小羊に倣う(キリストの証人としての)戦い(12-14章)を経て、証しの幕屋の神殿が開かれ、最終の7つの鉢(最終の災い/裁き)がもたらされ(15:5-8)、遂には事の成就(16:17)へと至ります。

つまり、ラッパは、来るべき最終(鉢)を待つ備えの時として描かれているのです。この備えと完遂の関係は、ラッパと鉢のシリーズの比較を通しても示唆されています。以下、確認してみましょう。

ラッパと鉢の比較・相関関係

ラッパと鉢の幻は、それぞれ7人の御使いが与えられた道具を行使することによって明らかにされるのですが、両シリーズは、並行かつ連続するものとして描かれています。いずれも、災禍がもたらされる対象は、第1から第6と順に地、海、川・水源、太陽、地中、大河ユーフラテスへと進みます。順序は必ずしも同じではありませんが、出エジプトの際にエジプトにもたらされた災いをなぞるようであり、さらには、創世記の創造物語を彷彿させるものです。

ただし、同じことの繰り返しではなく、ラッパから鉢の幻には、備えから完遂へ向けて、進展が見られます。その展開の最後の最後まで、教会を戦いに備えさせ勝利を得させるために、また、その証しによって人々を贖いへと導くために、残された手(奥義)が尽くされるようです。

<第7の前の留保>
まず、封印そしてラッパの7シリーズには、最終となる第7の前に、いずれも長い幕間のような幻が挿入されます。封印では7:1-17、ラッパでは10:1-11:14です。この挿入が黙示録の読み手を悩ませるところかと思われますが、後述するように、実のところ、これらの挿入(また、ラッパと鉢の間の12-14章)にこそ、教会への預言、教会が得るべき勝利の秘儀が隠されているのです! 第1から第7への流れを敢えてとどめ、教会が終末の最後へ向けて勝利を治めていくために必要なことが、ここに明らかにされているのです。これらを経て及ぶ鉢のシリーズにいたっては、なすべきことはすべてなしたと言わんばかりに、一気に第1から第7の鉢が地に注がれます(16章)。

<被害の拡大>
第7の前に留保が置かれるのと関係することでしょう、もたらされる災禍による被害も、封印では四分の一(6:8)、ラッパでは三分の一(8:7-12; 9:15, 18; cf, 12:4)に留められたのに対し、鉢では一切制限がなくなります。(ちなみに、10:3-4で言及され、かつ、秘められた7つの雷によっては、二分の一に被害が及んだと推し測られます。ただし、その展開は記されてはいません。それは実際には起こらないのか、あるいは、起こるとしても、ヨハネや教会が関知すべきことではないのでしょう。いずれにしてもその災禍と被害よりも、もっと大切な預言が10-11章には記され、教会…私たちキリスト者…はその召しをヨハネとともに受けているのです!)この被害の漸進的な増加もまた、7シリーズを通しての深化を物語っています。そして、この展開の鍵となるのが、7シリーズの合間に秘められているのです! 

<中天の鷲の宣告>
第4のラッパの後、一羽の鷲が突如出現し、3つのラッパの音によってもたらされる3つのわざわいを予告します(8:12)。この鷲の予告が、第7のラッパと7つの鉢を繋ぐことになります。第1と第2のわざわいは、それぞれ第5・第6のラッパによって過ぎ去ります(9:12; 11:14)。けれども、第3のわざわい、すなわち最後のわざわい(11;14)の幻は、第7のラッパ(11:15)の直後には描かれません。そこにはまず描かれるのは、天におけるキリストの支配の成就の宣告(11:15)、続いて、24人の長老たちの礼拝(11:16-18)、天の神殿からの契約の箱の出現、そして神の顕現(11:19)です。わざわいがもたらされるのは、12-14章の挿入を経て、7つの鉢を待たねばなりません(15:1, 5-8; 16章)。あたかも、わざわいそのものが最後の目的ではないこと、あくまで4-5章で描かれた天の現実が地に及ぶという前提において、最後のわざわいがもたらされるのだということを、念押しされているかのようです。さらに、その最後わざわいの前に、教会が挑まれている戦い、敵の戦法と勝利の秘訣について、よくよく心得ておくようにと12-14章の幻が挿入されています。それらをすべて踏まえて、ようやく第7のラッパにともなうべく最後のわざわい、7つの鉢が描かれるのです、

なお、第7のラッパ(11:15-19)と7つの鉢(災い)の天使の登場(15:1)の間に挿入される長い幻(12-14章)と、7つの鉢の幻は、いずれも「大きなしるし」の出現とともに提示されます(12:1, 3; 15:1)。つまり、両者はいずれも黙示の極意を示唆するもので、相互に補完しながら理解すべきものだということでしょう。

<人々の頑なさ>
上述のように、終末が極まるにつれて、天が地に臨み、最後のわざわいが完遂されようとしています。と同時に、最後の最後まで神は、教会のため、引いては残されている人々のために、留保を尽くされます。ただし、悲しいかな、人々の心は頑なになるばかりです――出エジプトの際、ますます心が頑なになっていたファラオのように(cf. 出エジプト7-12章; ローマ2:5)。裁きとしての災いを身に招いても、神を探し求め、悔い改めるどころか、神を否み、呪うまでになるというのです(9:6, 20-21; 16:9, 10, 21)

この災禍と人の頑なさは、神とその御業を知る者には、不可思議に思われるかもしれません。しかし、出エジプト記に描かれるファラオに見られる姿であり(出エジプト7-12章; i.e., 7:3-4)、聖書を通して明らかにされる人の姿でもあります。自由をもって創造された人は、神を離れ、否み、神とそのみ言葉とは相容れない世界(観)を構築すること、また、神ではなく人の構築した世界を選択することも許されます。その背後にはサタンの働きがあるにせよ、人には選択を委ねられ、最後まで自身の選択の通り生きる(遂には滅びを身に招くとしても!)ことも許されているのです。そうならないために、神は万策尽きるまで働きかけてくださることは、上述のとおりです。黙示録の預言は、滅びに至る人々に巻き込まれないよう、引きずられないようにとの警告であり、そのような人々の中にあっても、なお神とそのみ言葉に生き、証しするるように、人々をまことの神のもとに招くようにとの励ましでもあるのです。

 続きは、次回へと・・・ 

 

【補足】以下、思い立った時に、ポチポチ補足しています。脈絡を気にせずご参照ください。

  • 掲載した画像について:典拠は以下のとおりです。(念のため申し添えると、画像のもととなるサイトの記事にはちゃんとあたっておらず、その内容に同意するものでは必ずしもありません。)

◆エリコの戦い
https://freerepublic.com/focus/f-religion/3878496/posts

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