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II. 黙示録の幻(4-22章)の構成(2)7シリーズ×3の前(4-5章)

黙示録6-16章で描かれる3つの7シリーズは、前後の幻にはさまれています。この前後の幻にどんな意味があるのでしょう? 

一方(4-5章)で、地を覆う天の現実(地からは隠されているけれど!)、時空を超えていにしえからとこしえに(今なお!)拡がりゆく現実が描かれ、他方(17-22章)で、その天が地に臨む時にもたらされる約束が示されます。この天の現実に与らずして、約束を待ち望むことなくして、地で起こる(起こるべき)出来事の中で、主にある勝利を治めることは至難の業だからでしょう。実際、6-16章では、多くの人々が(知らないうちに)神を否定し、呪い、滅びを自らに招くという痛ましい展開もあわせて記されています。(そして、そんな兆しは、先を待つまでもなく、今すでに見られるものです。)

ここでは、まず前提/土台となる4-5章を味わいましょう! 

開かれた天の門

その後、私は見た。すると見よ、開かれた門が天にあった。

ヨハネの黙示録4:1

黙示録4章は、ヨハネが天に開かれた門を見ることから始まります。この扉は、直前の教会宛ての宣告でも示されています。称賛しかないフィラデルフィアの教会宛て(3:8「だれも閉じることのできない門」; cf. 21:25)だけでなく、ほめられる点の何一つないラオディキアの教会宛てにもです(3:20の訳出はともあれ、ギリシャ語では先/後の「門」と同じ単語!・・・よく知られた絵画のイメージとは異なるかもしれません)。7つの教会の最後の2つの教会への宣告での言及は、単なる偶然ではないように思われます。対照的な教会のどちらにも天の門は開かれている! つまり、すべての教会の前に、この門は開かれていると言えるでしょう。ただし、その門を見るのは、御霊にあってこそ! 著者ヨハネと同じように、御霊によって、み言葉と証しに生きるなら、誰もが仰ぎ見る幻です。(そうでなければ、この書物を教会に書き送るよう命じられることはなかったでしょう。)

天での恒常的な礼拝

著者ヨハネが天の門の先に見たのは、天での礼拝です。唯一まこと、無類の神に礼拝が捧げられている様です(4:2-8)。ここに記される稲妻、轟音、雷鳴(4:5)は、神がシナイ山でモーセに律法を授けるにあたって民に現れた際の顕現の象徴で(出エジプト19:16-19)、その他の書においても神の顕現にともなう現象として記されるものです。(黙示録の6-16章でも要所要所に描かれます。)また、24人の長老は、12部族長と12使徒、つまり旧新の神の民を代表する者たちと想定され(21:14)、神の民の予型として描かれていると受けとめられます。今を生きる神の民、キリスト者も、遂には、彼らとともに(彼らのように)集うことになる!――その様が描かれています。一方、玉座に侍る4つの生き物は、預言書(エゼキエル1章; cf. イザヤし6章)にも登場し、神の御座に侍する全被造物、被造世界を象徴する天的な存在として描かれています。そして、様々な宝石を挙げての描写は、祭司の長服~幕屋や神殿の描写、その神々しさを総合するようであり、比類なき彩りの豊かさ、荘厳さを示唆します。

どんな素晴らしい絵図でも到底及びもつかない世界!(絵にすると、どうしても安っぽさが否めないのは確か!) 

天では、唯一まことの神、創造主なる神が、4つの生き物(全被造世界/被造物)と24人の長老(神の民)から、至上の礼拝を受けている!――それこそが、絶え間なく、昔も今も先も、いにしえからとこしえに、世々限りなく続く現実なのです。そう、今も! 私たちの上にも!! です。

巻物と新しい礼拝

まったく欠けのない礼拝の幻に続き、5章に入ると一つの問題が提示されます。神の右の手(執行力の象徴)にある巻物に7つの封印がされ、誰もその封印を解いて、開くことができないというのです(5:1-4)。

終末に預言を記す巻物については、かつて預言者に託され、民に語られてきたこととして記されています。捕囚を前にエレミヤに(エレミヤ36:1-3)、捕囚の只中でエゼキエルに(エゼキエル2:9-10、また捕囚後にはゼカリヤに(ゼカリヤ5:1-2)。これらの預言は、捕囚から帰還し、エルサレムに神殿が再建されても未完のまま残されました。

また、書物の封印についても記されています(イザヤ8:16; 29:11; 特にダニエル12章)。紀元前後には、こういった巻物・書物に関連した様々な黙示文書が出回っていたようです。誰がいつ、どのように裁きと救済をもたらすのか――当時のユダヤの人々にとっては大きな関心事であり、様々な待望があったことが推し測られます。(現状維持派の人々にとっては、とんでもなく鬱陶しい話だったことは想像できますが。)

そのような待望の声が叫ばれる中、5章で著者ヨハネが見たところ、終末の展望を明らかにしているはずの巻物が、完全に封じられている(いた)ということです。ヨハネは、神の言葉とイエスの証しのゆえに労苦し、隔離を余儀なくされてパトモスにいました(1:2, 9)。この書を宛てた教会の仲間にもそれを共有しようと奮闘してきたのです。それなのに、天の礼拝の場――神の御前においてすべてが明らかにされるはずの場――で、終末の預言が封じられている――知りようがない、分からない――となると、ヨハネの嘆きはどれほど深いものだったことでしょうか(4:4)。自分のしてきたことは無駄だったのか、自分は虚しく仲間を誘導してしまったのか・・・ そんな思いもよぎったかもしれません。
 
しかし、そこでヨハネに良き知らせ告げられます。旧約の約束に沿った「ユダ族から出た獅子(創世記49:9)、ダビデの根(イザヤ11:1,10 エッサイの根)」が、その勝利によって、巻物を開くことができるようになったというのです(5:4-5)。もはや泣くことはない! そう耳にしたヨハネが、しかし実際に見たのは、獅子とは対照的に思われる子羊、しかも屠られたような姿の子羊でした。(つまり、屠られていれば死んでいるはずなのに、生きているということ!)屠られた子羊は、出エジプトの過越(出エジプト12:1-13)や律法の諸規定にあるように、旧約聖書を通して、民の救済にとって必須の犠牲でした。また、イザヤ書では、苦難の僕の姿を象徴しています(イザヤ53:7; cf. エレミヤ11:19)。

ヨハネは、天の神殿、神の御前において、改めて、終末に神の民に約束された勝利がイエス・キリストの犠牲によって成就したこと、すなわち、イエス・キリストにおいて、神の言葉にかなった犠牲(祭司の領域)と戦いの勝利(王の権限)とが統合されたことを知ったのです。さらに、続く終末の展開、成就をもたらすのは、イエス・キリストによって証された神の勝利と支配、神の言葉の力と死(~復活)の証しによるのだと示されたのです。
 
その勝利者なる屠られた子羊が、封印された巻物を受け取りました(5:6-7)。つまり、終末の預言を明らかにするのは他の誰でもないないキリスト・イエスであり、神がそれをふさわしいとしたのは、キリスト自身の屠られた血の故――それによってあらゆる人々を贖うことができるから――でした(5:9-10)。その結果が「新しい歌」――4章のまったき礼拝に、神と並べてその小羊を賛美するもの――であり、そこには「すべての部族、言語、民族、国民の中から」人々が贖いわれ、神の民、祭司、支配(統治)者として加えられるのです。それにともない、参与する者たちがより鮮明にされていきます。幾千幾万の天使、「天と地と地の下と海にいるすべての造られた者、そして、そこにいるあらゆるもの」へと拡がりをもって描かれます(5:8-11)。しかも、それは4章の礼拝と違えるものではなく、4つの生き物も24人の長老たちも、新たな要素をもって、なお変わらず、より豊かに礼拝を捧げ続けるのです(5:8, 14)。

子羊は来て、御座についておられる方の右の手から巻物を受け取った。
巻物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老たちは子羊の前にひれ伏した。彼らはそれぞれ、竪琴と、香に満ちた金の鉢を持っていた。香は聖徒たちの祈りであった。
彼らは新しい歌を歌った。
  「あなたは、巻物を受け取り、
  封印を解くのにふさわしい方です。
  あなたは屠られて、
  すべての部族、言語、民族、国民の中から、
  あなたの血によって人々を神のために贖い、
  私たちの神のために、彼らを王国とし、
  祭司とされました。
  彼らは地を治めるのです。」
 また私は見た。そして御座と生き物と長老たちの周りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の数万倍、千の数千倍であった。
彼らは大声で言った。
  「屠られた子羊は、
  力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を
  受けるにふさわしい方です。」
また私は、天と地と地の下と海にいるすべての造られたもの、それらの中にあるすべてのものがこう言うのを聞いた。
  「御座に着いておられる方と子羊に、
  賛美と誉れと栄光と力が
  世々限りなくあるように。」
すると、四つの生き物は「アーメン」と言い、長老たちはひれ伏して礼拝した。

ヨハネの黙示録5:7-14

この天の現実――唯一まことの創造主なる神への礼拝、終末をもたらした子羊なるイエス・キリストへの「新しい歌」をもっての礼拝――が、全被造世界/被造物、すべての部族、言語、民族、国民への拡散、増幅していく、これこそが、今の現実です。6章以下に続く7つのシリーズやそれらに挿入、付加される一連の幻は、この天の現実が地にもたらされるにあたって、すでに起こっていること、今そしてこれから起ころうとしている現象を示唆するものです

 ただし、地での現実は、子羊なるキリスト・イエスが屠られねばならなかったほどに厳しいものです。人の世にあって、その土台と展望をしっかり見据えることなしに勝利を得ることは難しい。だからこそ、この4-5章がすべてに先立って提示され、天への志向、地における悔い改めと従順を喚起するのです。消極的には、地に蔓延する諸々の力に屈したり、惑わされたりして、迎合や妥協することがないように。積極的には、天での現実――すでに始まり、被造世界に拡散しつつある新しい礼拝、また贖われつつある創造の御業――に参与し、地にあって証しし、備えられている約束を得ていくように。

ここに記された土台(実は、現在進行中!)が、どのように決着、終末を迎えるのか? その究極的な答えが提示されるのが、7シリーズの後、17-22章になります。次回はその7シリーズ後の幻について触れます。

その前に・・・ 願わくば、天で成っていることが、地でも成りますように。天に呼応して、私たちが地で礼拝をささげることができますように。地においても、礼拝を通して、天の現実に与り、天を迎える備えができますように! 祈りと賛美を合わせることができれば幸いです。
 


【補足】以下、思い立った時に、ポチポチ補足しています。脈絡を気にせずご参照ください。

  • 4-5章に登場する「生き物」は、後に登場する「獣」とは区別されています。前者は、エゼキエル1章等に描かれ、神の御座に侍り、神を称え、その御業を担います。全世界、全被造世界のあるべき姿を示唆しているかのようです。後者は、ダニエル章にも描かれており(2:38; 4:9, 11, 12,13, 18, 20, 22, 29; 5:21; 7:3, 5, 6, 7(2), 11, 12, 17, 19, 23)、サタンの手足となって、神の民に攻撃を挑み、苦しめる厄介な存在です。この両者の対比は留意すべきでしょう。

  • 掲載した画像について:私の脳裏に浮かぶ黙示録のイメージとは必ずも一致しませんが、それでも載せてみました。典拠は以下のとおりです。(念のため申し添えると、画像のもととなるサイトの記事にはちゃんとあたっておらず、私の賛否は何とも言えません。)

◆天の門
https://www.openheaven.com/forums/topic/a-door-opened-in-heaven-revelation-41/

◆天での礼拝
https://biblestudyministry.com/i-will-shew-thee-things-which-must-be-hereafter/

◆7つの封印の巻物
https://www.shutterstock.com/image-illustration/7-seven-seals-scroll-fire-260nw-2211068985.jpg

◆獅子と子羊
https://www.wgtncrc.org/post/re-05

画像として提示すると、どんな素晴らしいイメージも、何だかなぁ… という感じは否めないですね。それでも、敢えて、視覚的な提示を試みてみました! 

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