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IV. 黙示録の7シリーズに秘められた預言③ 第6・第7のラッパの間(2):教会の召し/働き(11:1-13)

第7のラッパ(11:15)を前に、ヨハネに与えられた巻物、預言の概要(意義、効果)を示唆する象徴的な幻が提示されます(11:1-13)。そこに、ヨハネとその仲間である教会の召しであり、担うべき働きが記されます。最後の到来を待つ間(cf. 第5の封印6:9-11; 7章)、教会には果たすべき召し/働きがあり、子羊とともに治めるべき勝利があるのです(cf. 2-3章)。

11:1-13 預言の概要:2つの象徴的な幻

11章の幻で最初に示されるのは、測り竿による神の神殿と祭壇の測定、そして礼拝者たちを数えることでした。これは、捕囚期のエゼキエルと捕囚後のゼカリヤにも与えられた幻で、測る対象が守られることを示唆します(エゼキエル40:3, 5; ゼカリヤ2:5)。つまり、地においていかなることが起ころうとも、礼拝、祈りの場、また礼拝する人々は、守られることが約束されているのです。4-5章で提示される天の現実に通じる扉は必ず開かれいて(4:1; cf. 3:8, 20)、天の御座から全世界へクレッシェンド的に広がる神と子羊への礼拝に人々は集められている(5:8-14)――殉教者たちがその礼拝に参与し(7:9-17)、また祈り(神への訴え、叫び)が捧げられ天に立ち昇るように(6:9-11; 8:3-5; 11:15-19; 15:2-4)。地にあってそのための場は確保され、加わる人の数は数えられているのです――ちょうど白衣の衣を与えられる人々の数(6:11)、神の刻印を押される僕の数(7:3-4)が数えられるように!(そうして、それらの人々は命の書に書き記されているのでしょう。)

他方、神殿の外庭に象徴される異邦人への預言、証しについては、測られることなく、異邦人のなすがままにされます。ここに遣わされる二人の証人(11:3-12)が誰なのかは議論が尽きません。そのことは承知の上で… 黙示録の預言が宛てられた人々が教会であるという紛れもない事実に加え、この二人が喩えられるオリーブの木は神の民を(詩篇52:10; エレミヤ11:16)、特に油注がれた者たち(ゼカリヤ4:11-14)を示唆すること、また、燭台は黙示録の冒頭で教会を指すものとして描かれていること(1:20)から、この二人の証人は、教会とその働きを象徴的に表していると言えるでしょう。

二人の証人 様々なイメージ画像

この二人の証人の力は、モーセとエリヤと比較され、それらを凌ぐものであることが示唆されます。モーセとエリヤは、神の民の間で再来が待望されていた究極の預言者で、十字架の前、イエスの変容の場に居合わせたとされる預言者でもあります(マタイ17:1-13; マルコ9:2-13; ルカ9:28-36)。エリヤは雨を降らす力が与えられたのに対し(第一列王記18章; ヤコブ5:17)、この二人は天を閉じて雨が降らないようにできる――まるで、ノアの洪水をもとどめることができるかのように描かれます。また、モーセは水を血に変える力や災いをもたらす力が与えられましたが、この二人は「思うままに何度でも」あらゆる災害で地を打つことができるというのです(11:6)。しかし、その究極の力は、その死と神による復活です(11:11)。つまり、教会にはあらゆる奇跡が託されているものの、その最たる証しは、主なるキリストに倣う十字架であり、神によってもたらされる復活です。実際のところ、獣(サタン)は、教会(キリスト者)を打ち負かし、死をもたらしてきました。そして、世の人々は、(煩わしい声が消され)喜び祝ってきたのです。しかし、その死は死で終わることはない――キリストをよみがえらせた神は、教会を再び興し、復活させ、引き上げられるのです。 

この二人の証人(すなわち教会)による死と復活の証しは、預言者の働きに勝るものです。というのも、証しに続く地震では、都の10分の1が倒れ、7千人が死んだとあります(11:13)。それは決して小さいものではありません。しかし、イザヤに託されたことばでは、都の10分の1しか残らず(イザヤ6:13)、エリヤの業では7千人の民しか残されなかった(第一列王記19:18)とあります。比較すると、いかにこの二人の証人の証しが大きな救済につながるのか、考えさせられるでしょう。

さらに、この証人(教会)の証しこそが、災いではもたらされることのなかった人々の神への賛美(神に栄光を帰すこと)につながるのです。ラッパによる災いでは、人々は偶像崇拝をやめることもなければ、悔い改めることはありませんでした(9:20-21)。また、先んじて言うと、この先、7つの鉢により最後の災いがもたらされても、人々は神を冒涜し呪うばかりで、悔い改めて神に立ち返ることはありません(16:9, 10, 21)。災いの中で、神などそっちのけという人々、神を冒涜し呪う人々の中に、教会は身を置くことになるかもしれません。キリスト者は、様々な恐怖、誘惑によって、信仰が試されるでしょう。しかし、教会は、たとえ一時的に滅ぼされ、いのちを失うようなことがあっても、神によって、イエス・キリストを復活させた御力によって、復活させられるのです。天が開かれ地にもたらされ、天の御国が地に成るまで、教会は不滅なのです(目に見える建物や集会がなくならないということではないにせよです)。そのことを予め知り、覚え、神のことばに耳を傾けて、まことの勝利を得るように――証しに生き、願わくば、さらに人々が悔い改め、神に立ち返るよう――召され、励まされているのです。

二人の証人の預言の内容とは!? 

では、この二人の証人は、何を預言したのか? その内容は、続いて与えられる「大きなしるし」をともなう幻(12:1, 3; 15:1)で明らかにされます。そのことは、この二人の証人が異邦人の間で証しする期間――42ヶ月(11:2)、1,260日(11:3)、つまり3年半――と、続く12-13章の幻の期間、女(=神の民)が竜(サタン)の攻撃を逃れ荒れ野に隠される1,260日(12:6)、「一時と二時と半時の間」(12:14)、また、サタンに追従する獣(=人の支配、策略)が活動する権威を与えられる42ヶ月(13:5)が同じであることからも暗示されています。

この期間は何なのでしょうか? 鍵となるのは、「一時と二時と半時の間」という一見謎な期間です(12:14)。これは、ダニエルの預言に由来する封印された期間(ダニエル7:25; 12:7; cf. 12:11-12)で、最後の時の前段階、終末期の待望の「聖なる民の勢力が完全に砕かれる」期間(12:7)、「多くの人々が清められ純白にされ、精錬される」(12:10)期間を示唆します。黙示録では、この期間こそが、教会が戦い、勝利を得るべき時として描かれているのです。その期間に何がどう起こるのか? 教会は誰とどのように戦い、どんな勝利を治めていくのか? 12章以降に明らかにされる内容です。

なお、後述するように、預言の内容――12-13(14)章の戦い、また15章以下の最後の裁きの幻――は、地を支配する者たち、世に安住する人々にとっては、喜ばしくない、苦しませる内容です(11:10)。教会は、この内容を言葉をもって証しするのみならず、内容を腹に入れて(消化し、血肉とし)、それに即して生きる(また死ぬ――殉教しても復活にあずかる)よう招かれているのです。それは、まさに10:10にある通り、口には甘く、腹には苦いものなのでしょう。しかし、そこにこそ究極の勝利があり、その勝利を得るために、地において聖所が保たれると約束されているのです。
 

【補足】以下、思い立った時に、ポチポチ補足しています。脈絡を気にせずご参照ください。

  • 最後の災いの宣告(11:14)と第7のラッパ(11:15-19)について: この二人の証人の幻を通して、教会の状況とその働きについて記した後、最後の災いをもたらすべく第7のラッパが吹き鳴らされます(11:15)。しかし、過ぎ去った第2の災いに続き、第3の災いがすぐにやってくるはずのところ(11:14)、それは15章まで据え置かれます。第7のラッパに続くのは、再び天での礼拝であり、キリストの勝利と神の裁きの宣言でした(11:15-19)。来るべき災い、裁きは、それ自体が目的ではない――来るべき時、天の現実が地を覆う時には、避け得ないことなのでしょう。

  • 掲載した画像について:典拠は以下のとおりです。(念のため申し添えると、画像のもととなるサイトの記事にはちゃんとあたっておらず、その内容に同意するものでは必ずしもありません。)

◆トップ画像
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◆二人の証人イメージ画像
https://dwellingintheword.wordpress.com/2014/08/11/1376-revelation-11/

https://www.biblicaltoolbelt.com/l/the-two-witnesses-revelation-11/

https://www.beautifulchristianlife.com/blog/who-are-the-two-witnesses-of-revelation-11




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