好き勝手やらせてくれ

 小学校1年生の頃に習い始めたピアノは、1年経った頃にやめた。どう考えても、教わるより自分で好き勝手やる方が楽しいと感じた。今思えば、あの時辞めてよかったと思う。
 習い事としてのピアノは、心底つまらなかった。なぜ大好きな音楽をやっているのにつまらないのだろう、なぜ私はこの曲をやらされているのだろう、いつもそんなことを考えていた。いやだいやだと思いながら教室の階段を1段1段登っていた光景が、今も鮮明に頭に蘇る。本当に辛かったし、先生も嫌いだった。先生はレッスン中に居眠りをするのだ。論外である。

 レッスン以外では、ピアノの練習をほとんどしなかった。その代わりに、自分の好きな曲をひたすら耳コピして、当てずっぽうに鍵盤をおさえながら適当に弾く時間を心底愛していた。そうやってピアノに触れる方が楽しいと知っていたのだ。
 耳コピをすれば耳が育つ。楽譜が読めなかった私は、ピアノの先生がお手本として弾いてくれた演奏を耳で覚えて、それを再現する作業をひたすら繰り返していた。でも1年も習えば、曲のレベルも上がってくるし、さすがに楽譜が読めないと厳しい。ということでピアノを辞めて、もっと自由にピアノと向き合う時間を作った。今でもずっと、楽譜を見ずに好き勝手にピアノを弾くということをほぼ毎日やっている。

 小学1年生当時は気がつかなったが、20年ちょい生きて分かった。勉強でも習い事でも、何かを習得するときには、その人なりの方法がある。みんなが同じ方法で習得しようとするのは無理な話である。初めから手取り足取り教わりたい人もいるし、まずは自分でやってみたい人もいる。私は断然後者である。どこが分からなくて、どこを教えて欲しいのかということを自分の頭の中で整理できた段階で、やっと人にアドバイスを求める気になる。頭の中に空白を作らないと、話が入ってこないのだ。どこが分からないのか、整理がつく前に人に聞いてしまうのは、何だかとっても受動的に思えるし、理解しようとすることを放棄しているかのような行為に思えてしまう。これはあくまで私の価値観。

 友人と話をする時、よく振る話題がある。「新しく買った家具の組み立てをするとき、最初に設計図を読むタイプか、それとも何も見ずにまずは手を動かすタイプか。」後者タイプの人は、おそらく私と気が合う。私のやり方は、もうすこし正確に言えば「何も見ず、まず手を動かして、できそうだったら続けるし、難しいと思ったら設計図で答え合わせをしながら進める。」だ。
 組み立てるモノの難易度にもよるが、実はビビりだから、間違えたら後戻りできない系のものだったら、確実にまずは設計図を見てから取り組む。(笑)

 でも、こうやって「好き勝手やりたい派」で押し通せるのは、その責任が自分に返ってくる時だけである。好き勝手やった結果、家具の部品の取り付け位置を間違えても、自分が痛い目に遭うだけである。
 一方で、例えばアルバイトとか仕事とか、集団の中の代表として責任を負っている場合は、設計図の指示を正しく理解して、設計図通り、もしくはそれ以上のモノを生み出すことが期待されている。

 来年、私は社会人になる。きっと、設計図通りを続けていると、私は壊れてしまうとおもう。だから、日常に「あそび」が欲しい。仕事に対する「あそび」は、はなから期待していない。ピアノは、私が世界で唯一ひとりになれる場所で、「あそび」のひとつだ。

 今日もピアノの鍵盤を撫でる。

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