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人からお金をもらうということ

 コロナ禍の副産物的に、アルバイト先から休業補償としてまとまった金額をいただいてしまっている。現在私は、諸事情があってアルバイトを休んでいる。当初は、まさか休職中でも給料が入金されるとは思わず嬉しさを隠しきれなかったのだが、受け取りはじめて3ヶ月目になったところで「本当にこれで良いのだろうか」という思いが強くなってきている。この3ヶ月間、自分は何も生み出せていないし、社会の役に立つようなことは何もできていないように感じる。目に見える成果というものは何もない。ただ毎日本を読んだり、ネットサーフィンをして、それに飽きたら寝転んで過ごしている。怠惰な生活というのは極めて人間臭い行為であり、文化的な生活といえば文化的ではあるのだが、健康かと問われればそろそろ胃がキリキリと痛む時期になってきた。やはり、お金というものは苦労が伴わなければ受け取れないような気がしてしまうのだ。それに、周囲の人間が毎日苦労して給料を得ているというのに、私はただそれを黙って受け取るだけである。なんだか会社に養ってもらっているようで、恐ろしい。また、惨めな気持ちである。
 以前、救急車で搬送された時にも同じ気持ちを抱いた。緊急時に救急車を呼ぶことは正当な権利の行使であるにも関わらず、わざわざ自分1人のためにどれだけの人にお世話になったのだろうかと考えると、社会全体に迷惑をかけている気がして、考えただけでぐったりしてしまった。119番通報を受けたオペレーター、搬送をしてくれた救急隊の人々、病院で受付をしてくれたスタッフ、医療行為を行なってくれた医療スタッフ、搬送に付き添ってくれた両親、道中で車を脇に寄せて道を開けてくれた車の運転手、、、挙げ出せばキリがないし、きっと自分の想像以上に多くの人々が私1人のためにそれぞれの事情を顧みず、協力してくれたことと思う。病院で診察を受けた後、車椅子に乗ってぐったりとしていたあの時間は、ただただ惨めさと申し訳なさを感じるばかりであった。

 「市民として、必要があれば誰でも利用できる正当な権利であるにも関わらず、その行使にあたって社会全体に多大な迷惑をかけているように感じてしまう。」この構造は、生活保護受給者が抱える心理的ハードルの構造と似通ったものがあるのではないだろうか。彼らは、各々の事情で就労が困難であったり、所得が減少したりして、最低生活の維持が困難なことから保護に至っている。受給に至るまでには厳格な資力調査があり、明確な基準により保護をするか否かが決定される。健康で文化的な最低限度の生活の享受は、日本国民全体に保障された正当な権利である、にも関わらず、現状として堂々と受給者であることを宣言できる世の中では、ない。

 今回の自分自身の体験を通じて、生活保護受給者は日々どのような気持ちで過ごしているのだろうか、と思いを馳せる時間が増えた。自分が感じた惨めさや申し訳なさと通じるものを、彼らも感じているのではないだろうか。ここで強調しておきたいのは、本当に彼らが感じている気持ちは、実際に生活保護受給者の立場になって初めて理解できるものであると思うということである。だから私の考察はあくまで推測の域を出ない。
 一日中家にいて、ただボーッと過ごして日が暮れたら寝るという単調な生活。初めは悩みもなく気楽でいいのだが、だんだんと「このままで良いのだろうか」という気持ちになってくる。「自分は何もしなくて良いのだろうか」「自分の時間の使い方は正しいのだろうか」という気持ちに押しつぶされそうになってくる。元来手持ち無沙汰な状況が苦手な私は、副産物的に家事を前よりも率先してやるようになった。たとえ給料が発生せずとも、自分で体を動かして、何かをしているだけでその時だけは生き生きとした気持ちになって、充実感を感じられるような気がしたからだ。

 続けて、思いつくパターンを考えてみる。では、もし体が自由に動かないとしたら、どう思うだろうか。今自分が感じているような心細い気持ちを、さらに増幅させたような気持ちで日々過ごしている人もいるのではないだろうか。体が不自由であれば、そうではない人に比べて社会参加の機会が減ってしまう。これが、悲しいかな今の社会の現実である。コロナ時代であるからこそ、この傾向はさらに顕著になっているのではないだろうか。
 単身者世帯ならばどうだろうか。1人で過ごす方が気楽だという人もいるらしいが、それは孤独な夜をも1人で耐え忍ばなければならないことを意味する。単に一人暮らしなだけに留まらず、社会的なつながりに乏しく、まさしく社会の中でぽつんと孤立した状態ならば、極端なことを言えば死に際さえ孤独なのである。私は、そんな状況はどう考えたって良いわけ無いと思っている。自分はそれで良いと思っている人は、もはやその状況に飲み込まれてしまった人なのではないだろうか。少々過激な表現かもしれないのだが、誰にも悲しまれずに死んでいく人間など1人もあってはならないと思うのだ。

 では、(今の自分を含めて)この薄暗く永遠に続くかのように見えるトンネルにいる人々は、どうすれば救われるのだろうか。
 話は逸れるが、ここ最近、ベランダの掃除に取り組んでいて、ひと休みしようと思って外の世界を覗き込んだ時、中学生くらいの男女4人組が、仲良く並んでだべっていた。その時ふと思ったことがある。それは「友だちにおはようと言ったり、じゃれあってヘラヘラしたり、一緒にご飯を食べたり、そういった他愛のない時間こそが幸せだった。」ということである。特に、互いに何かを意識していた訳ではなく、ただそこに友だちがいるから、自然に、そうするだけのことだ。そこに、特別な感情はないかもしれない。相手が話していることだって、実は聞いているふりをしているだけで、聞き流してしまっているかもしれない。これが、どれだけ尊いことだったか。私は気づいていなかった。

 損得なしで、ただそこにいるからというだけで互いにサッと声を掛け合える関係性。互いの立場に上下関係がなく、申し訳なさを感じずに接することができる相手。たったこれだけのことと思ってしまいがちだが、これはお金を積んだからといって手にはいるものではないのだ。でも、これこそが、薄暗いトンネルに差し込む一筋の光になり得ることもあるのではないか。

 私は、来年の4月から福祉に関連した仕事に携わることになっている。自分1人の力は微力であるし、知識もまだまだ足りないし、いったい自分にどれだけのことができるかはわからない。何もできないかもしれないとも思っている。けれども、自分が今回感じたことをこのように書き留めているのは、自分の経験が、いつか支援対象者の気持ちに寄り添うための糧になるのではないかと感じる部分があるからである。だから、今感じている気持ちをいつでも思い出せるように、ここにメモ書きをしておきたいと思ったのである。

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