先生も正解を知らない。
小学3年生のときの担任が、大学を卒業したての小柄な女性だった。
彼女は「そうだ、嬉しいんだ 生きる喜び たとえ胸の傷が傷んでも」から始まる、お馴染みの『アンパンマンマーチ』を事あるごとにクラスに聴かせ、人生訓として講釈していたのを良く覚えている。
当時私は小学3年生だったので、アンパンマンをリアルタイムで観るには歳を取っていたが、人生哲学の題材として観直すにはまだ幼い。そんな年頃だった。それでも、子ども心に、彼女の人生訓を聞いて「ほう」と感じていた。
当時は、先生は物の理を全て心得た人生の伝道師だと思っていた。だから、先生の判断基準は全て正しく、叱られることがあれば先生に分があることを認めざるを得なかった。とまでは行かないが、何かしらの判断を仰ぐ時は教師に一任することが多かったような気が、今振り返ればしている。
それがまずかった。
確かに幼少時は判断が付かなくて、年長者の意見を丸暗記すれば済むだろう。ただし、少し抽象的なテーマになると、成熟した大人にも確固たる答えを用意できなくなるもんだ。
時間は人生の分割で、判断基準は価値観だ。他人の判断に身を委ねて時間を浪費するのは、どうなんだろう。
21歳になった今でも(成熟はしてないが成人はした)、不確かな判断を自分自身で下す必要に駆られるとき、つい誰かの承認を求めたくなってしまう心理が働くことを否めない。
「先生、この判断で合ってますか?ぼくはどうするべきだったんでしょうか?」
「間違ってはいない」という一言を求めて彷徨う。
小学3年生のときの担任だった当時の彼女とほぼ同じ年齢になったが、とてもじゃないが分別がついたとは言えない。当時、教師をはじめとする「ちゃんとした大人」の判断基準を絶対に正しいと考えていたが、彼らも人生に対する正解を持っているわけでは決してない。それがようやく分かった。
答えのない世界の中で、自分なりに道を模索するキャリアを踏み出したばかりで、彷徨う。
エンジニアのインターンをいくつか経験して、社会人と親しくしていただく機会にも恵まれたが、彼らも自分の頭で必死に考えてやっていることを目の当たりにした。人生における究極の目標を達成するために。
人生相談を受けたときに出す答えは、誰かの答えや模範解答の引用ではなく、彼ら自身が自分の頭で捻り出した答えなんだ。
先日見た映画『劇場版コードブルー』の中で、後輩の灰谷医師に「僕はどうするべきだったんてしょうか」と救いを求められたベテラン、橘医師は、こういう意味のことを言っていた。
自分にもわからない。分からないなりに精一杯やっている。
非常に印象的な場面で、脳裏に焼き付いている。そういうことなんだろう。
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