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奇跡講座WB実践335 私は兄弟の無罪性を見ることを選択する

第二部
12 自我とは何か
レッスン335
私は兄弟の無罪性を見ることを選択する。

奇跡講座下巻 受講生のためのワークブック


今の私は、人の話に同調して聞いている。
人の言うことに共感して反応している。
それが自我の聞き方、反応だと気づいているけれど、
そうしか聞けない。そうしか反応できない。

ワークの内容をその通りだと思いながら、
真逆の反応をしている自分。

それをどうしようもできない。
自分では止めることができない。
どうしたら止められるのかわからない。

だから、赦しをする。
こんな私であることを聖霊に差し出す。
私は神が創造したままの私でありたい。
兄弟を神が創造したままに見たい。



人の話すことはそのまま聞く。
否定も肯定もせず、そのまま聞く。
そうなんだね、そう思うんだね、そう感じてるんだねと。
でもそれに迎合しない。同調しない。
私はいつもココにいる。
真我であるところにいて、心眼で見る。

そのようでありたい。

この思いをイエスに言う。
聖霊に言う。



自我こそすべてであったところから、
真の自分を取り戻すまでの道程は、
人の数ほどあるんじゃないかと思う。
論理から入る人。
経験から入る人。
一瞥いちべつ体験から入る人。

奇跡講座こそが必須なのか、他の方法もあるのか、
それは私にはわからない。

だけどそれぞれが聖霊の導きによって必ず神に救済される。
それはもう完了しているのだから。



私は聖霊に確かに導かれてきた。

自我こそが私だと疑いもしなかった時の、
これをやったら幸せになるだろう、
これを得たら幸せになるだろう、
といったことをやってみて、
想像した幸せにならないという経験が必要だった。

自分は人並みかそれ以上にいい人間だろうという思い込み。
自分は人並み以上に世の中のことを思っているという思い込み。
自分は何者かになれるはずだという思い込み。
これらがベキッと根元からへし折られるという経験が必要だった。

ここまで積み上げてきたと思っていたものが、
すべて泡と消えて、なにもないと気づく経験が必要だった。
どれほど独りよがりで自己中心的だったかに気づく経験が必要だった。

その経験はこの先何をしたらいいのかわからない。
なにもできない、どうしよう、生きていけない。
と思うほどのものだった。

だけどこの経験があったから、私は真理を強く求め始めた。
真理ということを意識し始めた。
これがなければ私は真理に意識を向けることすらなかっただろう。


聖霊は私が受け入れやすいものから順々に差し出してくれた。
少しずつ少しずつ、この世界の時間をかけて歩いてきた。


今はまだ心眼で世界を見れない。
兄弟の無罪性を見ることもできない。
私の無罪性を見ることもできない。

それでも大丈夫だ。
だって聖霊が導いてくれている。
私に必要なことはすべて聖霊が差し出してくれている。

拒否しているのは私だと知った。
抵抗しているのは私だと知った。

その拒否している心、抵抗している心を取り去る赦しが私に与えられていることも知った。


だから、私は赦しをする。
赦しをし続ける。

私が兄弟を攻撃するとき、私は私の罪悪感を赦す。
私が兄弟を恐れるとき、私は私の罪悪感を赦す。
私が攻撃的な話を聞いたとき、私は私と兄弟の罪悪感を赦す。
私が恐れ、不安の話を聞いたとき、私は私と兄弟の罪悪感を赦す。

私は赦しをすることができる。
これは私の真の私への灯火だ。

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