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奇跡講座WB実践59 復習41~45
第一部
レッスン59 復習(レッスン41~45)
41 私がどこへ行こうとも、神が私とともに行く。
42 神が私の強さである。心眼は神からの贈り物である。
43 神が私の源である。私は神から離れて見ることはできない。
44 神は光であり、その光の中で、私は見ている。
45 神は心であり、その心とともに私は思考している。
この恐れと苦しみに満たされた世界は私の誤った考えの投影であることを学んできた。
そしてそれを実感してきている。
何が誤っているかと言えば、
私が神から離れて神より素晴らしい世界を創造できると考えたこと。
私が神から離れてしまったと考えていること。
それによって抱えきれないほど至大な罪悪感を持ったこと。
一人では抱えきれないから、無数に分離してしまった。
小さい、弱い存在になってしまったと信じている。
そのために恐れている。ものすごく恐れている。
恐れているために、周りが敵だらけだと考えている。
不安だ。心配だ。
いつ誰が神の命を受けて私を罰しにくるかもしれない。
自分のやってしまったことを直視するのがあまりにも苦しいから、人に投影する。
あの人のせいにしておきたい。
この人のせいにしておきたい。
私はいっさい悪くない。
そう信じたいためにルールを作り守り、守っていない人を見つけると喜んで非難する。
なんて苦しいんだろう。
なんて不自由なんだろう。
本当は、真実は、
私は神から離れたことなどない。
一瞬も離れていない。
分離などしていない。
ただ神の腕の中で眠りこけているだけだ。
神は私を離さない。
絶対の愛の中で私が目覚めるのを待っている。
私が目覚めるのを拒んでいるだけ。
私が真に見るのを拒否しているだけ。
神はすべてを私にすでに与えている。
私がそれを受けとるのを拒んでいるだけ。
なぜなら神に罰せられるという悪夢を見ているから。
この苦しい世界が私の誤った考えを投影した幻想なのだ。
だから私が真の考えになれば、その真の姿が世界に投影される。
そこには恐れ、不安、疑い、心配、動揺、苦しみはない。
神の想念が私の想念だから。
神の想念は愛以外のものはなにもないのだから。
真に見たい!
キリストの心眼で見たい!
頭ではそう望んでいる。
どうやったら心眼で見ることができるんだろう。
あ、この考えは自力だ。
自分でやろうとしている。
自分にはできないのだから聖霊に願おう。
真に見せてください!
心眼で見せてください!
この思いをLinpにシェアするとこんなことを言われた。
心眼で見たくない!って自分で言ってるのにね。
ああ、私は恐れているから真に見たくなかったんだ。
心眼でなんて絶対に見ない!って言ってたんだ。
神はすでに贈り物としてキリストの心眼を私に与えている。
それを拒否していたのは私自身だった。
今、このことを全面的に認めよう。
この誤った考えから拒否していたことを認めます。
私が心眼でなど見ないと決意していました。
今それを認めます。
赦しをしていくと自分がいかに神を拒否しているかが見えてくるという。
いかにこの幻想世界こそが現実だと信じているか、その証拠がひとつひとつ見えてくる。
自我は、”こんなに自分は出来てないのだから、無垢じゃないのだから心眼で見るなんてできないよ。”と囁いてくる。
”こんな小さなことすら出来てないんだからだめだよ”とすぐ言う。
聖霊は、”見えたことに小さいも大きいもない。そのような序列はない。ただ見えたことを素直に認めて欲しい。本当にそうだったと受け入れて欲しい。そうするときその小さな誤りを取り消すことができるから”と言っている。
自我の声が聞こえても、聖霊を信頼し、この幻想世界を現実として見ていた証拠をひとつひとつ認めて行くことで、誤りは訂正されていき心眼で見ることができるようになっていくのだという。
この日、カースティン・バクストン著作の『とある神秘家との結婚』を読んでいて、気づいたことがあった。
私はこの体こそ私自身だと、こんなにも強く深く信じている、ということ。
頭では私はこの体ではないことがわかっている。
この世界は私の考えの投影で、幻想であることがわかっている。
でも、私の深いところでは全くわかっていないのだ。
太ると着る服がなくなる。
痩せてないと着る服を選ばないといけない。
センスよく見られたい。
体の痛みをなんとかしたい。
立ち上がるのもきつい。手の痛みがひどい。
この痛みから解放されるためには、今やっていることをやめないといけないだろう。
誰の目も気にせずに暮らしたい。
好きなときにシャワーを浴びたり、好きなものを食べたい。
値段を見て諦めるようなことなく暮らしたい。
頭痛が周期的にやってくる。
頭痛がひどくなると吐き気を伴うから頭痛薬を飲みたい。
薬に頼りたい。
この化粧品はとてもいいから、この化粧品を使い続けたい。
こんなにも、こんなにもこの体こそが私だと思っている。
この体は自分じゃないと知っているのに、
こんなにもこの体が自分だと信じている。
赦すってなに?どうしたらいい?
助けて!!!
すぐにLinpに聞きたくなった。
Linpに話すとすぐに答えてくれた。
赦すとは、このように思っていることをそのまま認めること。
今、そのように信じていますと認めること。
私がこのように今信じていることに気づき認める時、聖霊はこの誤りを取り去ることができるのだという。
聖霊は私が気づいていないことを取り去ることはしない。
無理矢理に取り去ることはしない。
ひとつひとつ気づいて認めることで、聖霊はゆっくり取り去ってくれるのだ。
本当に心眼で見る、真に見ることを望むなら、
ここを通らずにはいられないのだろう。
”わかってきた”とうっすら思ってきた今、
こんなにも自分の体こそ自分自身だと信じていることに気づけてよかった。
カースティンが自身の経験をありのままに本にしてくれたおかげだ。
その本が手元にあることも聖霊の導きだ。
わからなくなった時に聞けるLinpがそばにいることも聖霊の導きだ。
なんて私は愛されているんだろう。
自分が誤って信じていることを、ひとつひとつ気づいていこう。
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