見出し画像

奇跡講座WB実践61 私は世の光である

第一部
レッスン61
私は世の光である。

奇跡講座下巻 受講生のためのワークブック


自我にとっては、今日の概念は自己讃美の典型である。しかし、自我は謙遜を理解せず、謙遜を自己卑下と取り違えている。謙遜は、救済における自分の役割を受け入れて、それ以外の役割は受け入れないことで成り立つ。世の光であることが神からあなたに与えられた機能であるのなら、自分は世の光ではありえないと言い張ることは謙遜ではない。傲慢さだけがこの機能が自分のものであるはずがないと主張するのであり、傲慢さは常に自我からのものである。

奇跡講座下巻 受講生のためのワークブック


「私は世の光である。」
私はある時期クリスチャンだったことがある。
その時、聖書を何度も何度も読んだ。
「私は世の光である。」
とは、聖書にはイエスの言葉として書かれていたような気がする。
記憶違いかもしれないけれど。

どっちにしろ、世の光が本当の私自身の役割だとはすんなりとは受け取れなかった。
特に1回目のワークを実践したときには、ぼんやりと、
そうなのかなぁ~みたいな受け取り方しかできてなかった。


今、レッスン50までの実践にできる範囲で真摯に取り組んできて、すんなり受け入れている自分に驚いた。
むしろ、そうでしょう、くらいの感覚だった。

朝に長めにワークをして、午前中は練習の言葉、

私は世の光である。それが私の唯一の機能である。 それが、私がここにいる理由である。

奇跡講座下巻 受講生のためのワークブック

これを繰り返し感じ、幸せな気分を感じていた。
でもお昼前くらいからバタバタしてくると、長い時間このワークを思うことなく時間を過ごした。


すると、少し相談事のような話をされたとき、それを心眼から見ることが難しいと感じた。
私がその時口にしたのは、自我の見方からの考えだったと思う。

また別の人の言動にムカッときた。
それほど強いものではなかったけれど、でも完全に怒りが湧いていた。


私がやるべきことは、何が起きてどんな感情が湧いたとしても、
湧いた感情を赦し、心眼で見たいと望むことだ。
そして神の想念に思いを向けることだ。

心眼で見れるようになれば、私が口にする言葉、行動は聖霊が導いてくれる。聖霊がこの口を使い話し、手足を動かす。

私の体は世の救済のために使われる。


今はまだそのようにできなかった。
でもそれすら赦そう。
私は確実に真理の道を歩いているんだから。

記事内容を気に入っていただけましたら、サポートしていただけると嬉しいです!