奇跡のコース実践記録28
★パート2 真の知覚の獲得への取り組み
9.「キリストの再臨」とは何でしょうか
”キリストの再臨”という言葉を知ったのは20代。
私がクリスチャンだった頃でした。
いつの日か天から見たこともないような光を纏ってイエスが降りてきて、私たちを救ってくれるって感じ?くらいに思っていました。
コースを実践して、そういう”神頼み”的なことではないことを知りました。
キリストの再臨とは、
この世界の出来事を、聖霊の見方で見ることです。
100%聖霊の見方で世界を見ることです。
コースのワークブックには
間違いの修正、正気の帰還
と書いてあります。
これまでこの世界の出来事を自我の見方で見てきました。
それが現実だと思ってきたし、そう教わり、また教えてきました。
私はこの肉体であって、命にも限りがあり、
災害や病気から自分の身を守らなければならないと信じていました。
自分以外の存在があって、それは家族、地域の方々、学校、職場、
友達、好きな人、嫌いな人など、社会でうまく生きていくためには、気を使ったり気に入られるように振舞う必要があるとも信じてきました。
解決しなければならない問題は、私以外の原因で次々と起こると考えていました。
いつも心配したり不安になったり。
人と比べては、自分に無いものを見つけて不平不満を口にしたり、
「常識」という定規に合わない人を見つけては捌いていました。
これは間違いだったんです!
正気ではない見方だったのです!
これが間違いだと聞いたとき、にわかには信じられませんでした。
意味がわからないし、理解できない。
だって身体に触れたら感覚があるし、目の前の人はどう考えても私じゃないのです。
これは頭で考えても理解できることではありません。
頭で考えるのは自我だし、真理は自我には理解できないことで、
自我は真理に気付かせたく無いのですから。
よくわからないままで、それでもコースの実践を続けました。
反発しながらも続けました。
反発してるのに、投げ捨てたくもなるのに、
それでも実践を続けようとする私がいました。
そのうちに少しずつ少しずつ、
これが現実ではないこと、私は肉体ではないこと、
起きる出来事は私の中にあることの投影であること、
私は何からも守る必要もないこと、
比べる必要がないことなどを信じられるようになっていきました。
信じようと努力したわけではありません。
理解しようとしたわけではありません。
私はゆるしの実践をしていただけです。
ただただゆるしの実践をし、聖霊に根源の罪悪感を取り去ってくれるよう
願い続けているだけです。
私はこの世界を聖霊の見方で見る選択をしました。
でもまだ大半のことを自我の見方で見ています。
それでも自我の見方で見ていることに気づき、聖霊の見方で見直すことがスムーズになってきました。
ここに努力が必要です。
自我の声は大きいのです。そして素早いのです。
自我の見方で見るとき、出てきた感情に流されてしまいそうになります。
今まで流されまくってきたので当然です。
感情がバーンと出たとき、その奥に微かに聞こえる聖霊の声に気づくことが大切です。
そして感情を脇に置いて、聖霊の見方で見直すのです。
生まれてからずっと自我の見方で見てきたのです。
それしか知らなかったのです。
いきなり聖霊の見方ができるわけではありません。
聖霊の見方を選び続けるということが必要なのだと思います。
時には聖霊の声に気づけず、自我の声に流されてもいいんです。
自我に流された自分もゆるすのです。
聖霊はいつも助けの手を差し伸べてくれています。
聖霊の助けを得て、徐々に聖霊の見方ができるようになっていくのだと思います。
私たちには自由意志があります。
自我の見方を続けていくのか、
聖霊の見方をするのか。
どちらでも選べるのです。
どちらを選んでもいいのです。
私は聖霊の見方を選びました。
それなのに自我の見方をして、時に自我に流される自分をゆるします。
続ける先に、聖霊の見方になっている私がいます。
それがキリストの再臨です。
Ruru
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