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奇跡のコース実践記録23

★パート2 真の知覚の獲得への取り組み

3. この世界とは何でしょうか

レッスン 241
この神聖な瞬間に救いがやって来ます。

レッスン 242
今日という日は「神」の日です。「神」への私の贈り物です。

レッスン 243
私は今日、起こることを何も価値判断しません。

レッスン 244
私はこの世界のどこにいても危険ではありません。

レッスン 245
「父」よ、「あなた」の安らぎが私と共にあります。私は安全です。

レッスン 246
私の「父」を愛することは、「父の子」を愛することです。

レッスン 247
ゆるしがなければ、私はいまだに盲目でしょう。

レッスン 248
苦しむものが何であれ、それは私の一部ではありません。

レッスン 249
ゆるしはすべての苦しみと喪失を終焉させます。

レッスン 250
私が自分自身を限られた存在として見ることのないようにしてください。


今までいろいろな本を読んで実践してきました。
エイブラハム、ラマナ・マハルシ、ラメッシ、その他のスピリチュアルなコンテンツなどなど。

読んで実践してきたつもりでした。

でもコースを実践するなかで、その理解が少しずつ深まってくるにつれ、まったく理解していなかったんだなということがわかってきました。

世界の見方がまったく違いました。


この世界で起きたことは”起きている”と思っていました。
天変地異、出会い、別れ、成功、挫折、人間関係などなど。

こう言われた。
こう思われた。
こうしてしまった。
失った。

それが起きたと思って悩み、苦しんでいました。

またそうならないようにしなければと、自分を守ってきました。

親から言われたこと。
世間で言われていること。
周りのの評価。

それらを守ることで、本当の自分の思いを覆い隠し、自分の本心や自分の好きなことすらわからなくなってしまったのです。


本当はどうしたい?


自分がどうしたいのか、分かりません。

そんなこと言うのは間違っている。
そんなこと言うのは子供っぽい。
そんなこと言うのは常識外れだ。


何かが思い浮かんでも、世間や親の評価を気にして瞬時に打ち消していまします。
自分のことは自分が一番よくわかっていると思っていましたが、まったくわかりません。

本当の自分を生きずに、周囲の評価を得られるように生きるのは、とても苦しいものです。

相当のストレスが心身にかかります。



ところがコースはこの世界は幻想だと言います。
何も起こっていないと。


「こう言われてイライラした」

実際にイライラしたんだよ。
イライラさせられた。

そう思います。


これを聖霊の目で見るとどうなるでしょう。

イライラすることを言った人はいないのです。
言われた私もいません。

起こったことは、
イライラすることを聞いた
ということです。

それを聞いてイライラと反応した心を見つけたのです。


なぜイライラしたのか。

まず自分と相手は違うという分離の見方で見ています。

そして分離したことを信じて生まれた「罪悪感」がうずきます。

あの人は、私を否定・非難した。
あの人は、私をコントロールしようとした。

私の気持ちとしては、

否定・非難されたくない。
私のペースを乱されたくない。
コントロールされたくない。
自由でいたい。
愛されたい。

です。


聖霊はこの出来事によって、私の中の「罪悪感」を見せてくれたのです。

人には、ある言われ方をした時の心の反応に癖があります。

こういう言われ方をするとこう反応しちゃうな。
こういう状況だと心はこう反応しがちだな。

その反応をする原因にあるのが「罪悪感」です。
それを取り去ってくださいと聖霊にお願いするのです。
そして聖霊が取り去ってくれることを信頼します。


こうして自分の中にある「罪悪感」が少しずつ欠けていき、続けていくことで以前のように反応することはなくなっていくのです。

これがゆるしです。
「罪悪感」を持っていた自分をゆるしていくのです。


分離の思いが真のゆるしの思いに変わると、この世界はまったく別な光の中で見られることになる


このゆるしを続けていくと、誰かを責める苦しみも、誰かを自分の思い通りにしようとする苦しみも無くなっていきます。

目の前の世界は本当にまったく違う世界に見えるのです。

自分を攻撃してくるように見えていたことは、すべて自分の中にある「罪悪感」に気づかせてくれることだったのです。

「罪悪感」を取り去るチャンスを与えてくれているのです。


レッスン243
私は今日、起こることを何も価値判断しません。

目の前に起きる出来事に対して、一切の価値判断をしないこと。
このことは約10年前に教わったことですが、今やっとその本質に触れたような気がします。


価値判断しないこと。
感情的にすぐ反応してきた私にはとても難しいことです。
それでも価値判断したなと気づいたら、その根本には「罪悪感」がありますから、聖霊に明け渡し取り去ってもらえるようお願いすることができるのです。

安心して委ねることができるのです。


ここまでいろいろな経験をしてこなければ、これを受け入れることはできなかったなと感じます。

本当にすべて必要な体験をさせてもらっているな、導いてもらっているなと思います。


Ruru

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