奇跡のコース実践記録24
★パート2 真の知覚の獲得への取り組み
4. 罪とは何でしょうか
この日、久しぶりにしっかりと雨が降っていました。
すると頭に「雨降って地固まる」という言葉が浮かびました。
安定していくイメージが湧きました。
歩きながらLinpとたくさんシェアしました。
今まで何かシェアしてると、Linpの話しぶりにすぐに抵抗し、反発して聞いていた私ですが、この日は反発が起きません。
聖霊にお願いしていたからかもと思いました。
「Ruruにも反発してたもんね」
とLinp。
そう、鳳凰Ruruにもよく反発していました。
振り返ると何か教えてくれる人に漏れなく反発してきたかもしれません。
秋になり公園のベンチに座っていると、毛虫が落ちてくるようになりました。そこは桜が多い公園でした。
そんな経験も初めてだったのですが、何の意味があるのかな、どういうことかなと思っていました。
「落ちてきた毛虫も自分自身だよ」
Linpに言われて「うへ〜・・」と思う私。
自分の目に映る出来事は自分の思考の投影です。
すべてが自分です。
この樹も、この花も、飛んでいるハチも蝶も、散歩中の親子も。
つまりこの毛虫も・・・。
大の虫嫌いの私としてはあまり受け入れたい話ではないのです。
っていうか全く受け入れたくないのです。
!!
これです。
全く受け入れたくないものも自分だということ。
すべてを受け入れる。
反発してた、素直じゃない自分を受け入れる。
そういう罪悪感を持っていた自分をゆるす。
LinpにAmazonから「とんでもなく全開になれば、すべてはうまくいく(トーシャ・シルバー)」を勧めるメールが届いたので、既読本でしたが再度読んでみたのだそうです。
すると、この毛虫のエピソードのような話が書いてあったというのです。
「とんでもなく全開になれば」
まさに全開になってすべてを受け入れるとすべてが流れ出すのです。
そこに価値判断を入れないで受け入れるのです。
これは自分の中での決まり事や禁止事項、善悪の判断などを持っているほど難しく、受け入れるのはとても怖いと感じることです。
その決まりや善悪の判断、禁止事項はどうやって持ったのでしょう。
親からの教え、世間の価値判断、”常識”という変わりやすいルールなどでしょうか。
それらのロープで自分を縛り、自分で自分の自由を奪っていたのです。
そのロープを切るのはかなりの勇気がいることです。
だってそれを守ることは自分を守ることになると信じてきたのですから。
そうしなければ生きていけない信じてきたのですから。
本当の私たちは自分を守る必要などない、神の愛の中にいるのです。
肉体は無くなりますが、”死”はないのです。
神と一体なのです。
だからロープを切っても何の問題もないし、
思い切って切ってみれば、あれ?なんてことない・・・という経験をするのです。
そして自分にかけていたたくさんの制限は消えていき、
自由になるのです。
反発してもいいのです。
受け入れなくてもいいのです。
無理やり分かろうとしなくてもいいのです。
自我にはわからないことです。
安心していていいのです。
自分のことを自分よりもよくわかっている聖霊が、
いつも導いてくれています。
いつ分かるのか。
いつ気づくのか。
いつ受け入れたいという気持ちが湧くのか。
いつロープを切ろうと思うのか。
いつ突然腑に落ちるのか。
それらは聖霊が計画してくれています。
その時に受け入れることができるように、今、受け入れないという経験をしているのです。
熱さと冷たさを経験しなければちょうど良さが知れないように。
喜びと悲しみは両方を経験するからより感じられるように。
失うことで有り難みをより感じられるように。
一方だけではなく、反対の経験をすることが本当に大切なことなのです。
この世界は幻想です。
目に映るすべての出来事は、神から分離したという罪悪感の投影です。
その出来事により自分の中にある罪悪感に気づき、ゆるしを実践できます。
ゆるし続けることで、神から分離などしてなかったことを知っていきます。
そして今、この物質世界に体を持ったままで、100%愛の中で生きることを楽しむのです。
Ruru
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