奇跡のコース実践記録33
★パート2 真の知覚の獲得への取り組み
14.私とは何でしょうか
私。
幼い頃不思議だった、この私という存在。
私ってなに?
そう考え続けると、私がなにかわからなくなってどうにかなっちゃいそうで、グラグラしてくる感じがあって。
怖くなって途中で考えるのを止めてました。
振り返ると、今までの人生での言動のすべてに私を守ろうとする思いがあったのだなぁと思います。
何から守るのかもわからずに、何かを怖れ必死に守ってきたようです。
ぎゅっと握りしめたもの。
とてもとても大切だけど、誰にも見られないように見つからないように、そして自分自身にさえ気づかれないようにずっと隠してきました。
自分にも隠してきたので、私はそのことをすっかり忘れていました。
でもどこかに何か大切なものを隠しているという感覚は、怖れや不安となって現れてきます。
怖れや不安を持ったままでは平安でいられません。
少しでも安心したくて怖れや不安に対処します。
台風の前に養生テープを貼るように。
ウイルスが侵入しないように除菌するように。
リスクヘッジのためにリスクをものすごく考えるので、そのリスクはやってきます。
引き寄せです。
だからますますリスクヘッジの必要性を信じるようになります。
これでは怖れや不安とのいたちごっこです。
何を達成しても、何を得ても、真の平安はやってきませんでした。
怖れや不安の大元は、私の中にあります。
私自身も忘れるほど隠してきたもの。
それと向き合うことが、怖れや不安から脱し平安の中にいるために唯一必要なことです。
隠してきたもの。
それは私の罪です。
神から分離しようと決め分離してしまったという罪です。
本当は分離など不可能で分離してないので罪は無いのですが、私の奥底で罪を信じきっているのです。
これが見つかると神に罰せられると信じているのでなんとか隠そうとしているのです。
だから見るのも怖い。
見つかるのも怖い。
向き合うのなんてもってのほか!なのです。
見ないようにしても、そこには罪を信じたがために生じた巨大な罪悪感が厳然とあるのです。
私の目に映る世界は、私の投影です。
私の中にある巨大な罪悪感が投影されているのです。
私の中にある罪を見ないようにするために、私の外に罪を見つけます。
それは病気だったり戦争だったり災害だったり喧嘩だったり、ありとあらゆる”問題”と見えることです。
すべて私の投影であるのに、
その”問題”に対処したり備えたりしないといけないと考えます。
対処すべきなのは、目の前に起きた”問題”ではなく、私が目を逸らしている私自身の中にある罪の意識です。
目の前に起きる出来事は、私自身の中にある罪の意識に気づかせるために起きているにすぎません。
周りの人たちの会話が耳に聞こえてきます。
その話題はネガティブなものが大半です。
そして彼らはいつもため息をつき、楽しくなさそうです。
ある日、一人の女性が会話のなかで私に聞いてきました。
「私、大変そうに見える?」
私は答えました。
「ううん」
すると女性は言いました。
「え?私が大変そうに見えないってこと?」
「大変だって言うとほんとに大変になるから、大変だって言わないの」
そう言うとその女性はなにか納得したように一人頷きました。
その後、彼女はなぜか私を信頼していろいろ話しかけてくるようになりました。
また別の女性とお菓子の話をしていた時のことです。
私はお菓子が大好きなので、勝手にさまざまなお菓子のランキングを作っていて、プレゼントするときはそのランキングから選ぶようにしています。
その一部を紹介して話していた時、その女性はこう言いました。
「やっぱりさ、人の悪口言って盛り上がってるより、こういう美味しいものの話してるほうが幸せになるよね。」
彼女は前日、悪口というか不満を別の方とずーっと話していたのです。
私は特に何を話すでもなく、入りたい会話には楽しく入り、入りたくない会話の時は流していただけ。
それでもこの二人の女性に少し変化があったのを感じました。
私と話す時、少しほっとしているのを感じます。
ネガティブな会話が耳には言っても、そんなことを言うもんじゃないとか、そんな言い方良くないとかも思いません。
ただ流し、その会話や会話をする人の価値判断をしなかったように思います。
価値判断するべきじゃないとすら考えてなかったです。
私はほんとに何もしていません。
でもそれが彼らの無罪性を見るということになっていたのかもしれません。
間違いなく聖霊が働いているのです。
私のどの言動がどう相手に作用しているのか私にはわかりません。
でも私に接してくる時はみんなたいてい穏やかになっているのです。
聖霊に、どのようにでもこの私の身体を使ってもらいたいと心から思いました。
私とは、この肉体ではありません。
この考えや感情でもありません。
私とは、神の子でありすべてとひとつです。
完全で癒されていて満たされています。
神にすべてを委ねる時、神の愛を反映して輝き続けるのです。
Ruru
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