見出し画像

奇跡講座WB実践51 復習1~5

第一部
レッスン51 復習(レッスン1~5)
1 私の見ているものには、何の意味もない。
2 私に見えているあらゆるものに、私にとってそれがもつすべての意味を与えたのは私自身である。
3 私に見えているどんなものも、私は理解していない。
4 これらの考えには何の意味もない。
5 私は自分で考えているような理由で、動揺しているのではない。

奇跡講座下巻 受講生のためのワークブック


レッスン50までひとつずつやってきて、初めての復習だ。
今回はレッスン1~レッスン5の復習。
レッスン51に書かれているこの5つのレッスンそれぞれのコメントは、この5つの関連性がよりわかるものとなっている。


やってみて感じたこと。

レッスン1~レッスン5を練習していたのは50日前。
その頃、私は私を動揺させる人の存在を目に見えるままに認識していた。
私と、私を動揺させる人として見ていた。
そして私を動揺させる人が変わらなければならないと見ていた。

頭ではそれは自我の見方だとわかっている。
わかっているけれど、感情がイライラしたらそのイライラさせた相手のせいで私はイライラしているという自我の見方に同一化してしまい、そこから離れることはできなかった。

だってあの人があんなことを言うから。
あんな言い方をするから。

50日間練習してきた今、1~5をやってみると、
そこに変化を感じることができた。

私がどんな動揺を覚えようと、それはすべて私の心の中の投影だ。
私が勝手に判断したことで、それは真実ではない。
イライラしても理不尽に感じても、
それは”相手”が私に与えたものではない。
私の心にあるものを”相手”に投影しているんだ。
つまり、私が私に与えているんだ。

私の心にあるものとは、怒りと攻撃性。
それが正当化され、攻撃が当然のものとされるように、”相手”に私を攻撃させている。そして私は怒り、不満に思ったり言い返したい思いに駆られたりしている。
その怒りと攻撃性の実態は神に対する恐れだ。

まるで鏡の間にいるようなものだ。
”相手”だと見えるものは、鏡に写った自分なのだ。
自分を小さく無力で弱い存在と信じているから、それを信じさせるような言動を鏡に写った自分に言わせているのだ。


動揺が起きたら、
それは私の誤った思考の投影だから、
その誤った思考を取り去ってくださいと聖霊に明け渡し、真に見たい、神とともに見たいと願うことをしていこう。


ネガティブな動揺が起きる場面は、実はやり易い。
気を付けていなければならないのは、仲の良い人といるときだ。
仲がいいだけに、今まで通りの反応をしてしまいそうになる。

誰かに不満を言う友人に対して、
「そうだね~」
と反応してしまう。あるいはしそうになる。

具合が悪かった友人に対して、
「大丈夫?」
と言ってしまう。
大丈夫なことは明々白々だ。
なにも起きていないのだから。私の投影なんだから。
それでも嫌われないようについ言ってしまう。

遠出する友人に、
「気を付けて」
と言ってしまう。
気を付けるべき何があると言うのだろう。

こういう小さな違和感をそのままにしない。
「大丈夫?」
「気を付けて」
など神の子が言うはずがない。
言ってしまうのは、この肉体こそが私だと信じている自我にほかならない。

まずは、言ってしまった後でも、
この肉体こそが自分だと信じている心を取り去ってもらうよう、聖霊に願おう。
そして何と言ったらいいか教えてくださいと願おう。


このレッスン1~5が最初の練習でありながら、
いかに大事な練習であるかと感じる。


記事内容を気に入っていただけましたら、サポートしていただけると嬉しいです!