見出し画像

奇跡講座WB実践186 世界の救済は私にかかっている

第一部
レッスン186
世界の救済は私にかかっている。

奇跡講座下巻 受講生のためのワークブック


私が求めているのはこの世界での充実だった。
生まれてこのかたずっとそれを追い求めてきたんだ。
ころっと変わるわけもない。
信念が変わらなければ変わらない。
変えようと思って変えられるものでもない。
それは私の知らないところにある。

この世界での充実を求めて得られたと思っても、
この世界のものはすべて移り変わり変化する。
得たものは失い、失ったと思ったものはまた得られたりする。
それは心も同じで、わかってくれたと喜んでも、またわかってくれないと落ちたり怒ったりする。

そんなうつろい続けるものと、
けしてうつろわない愛、平穏と静けさと
どちらを本当に望むのか。

そう問われれば、けしてうつろわない愛を選ぶ!と即答するものの、次の瞬間にはこの世界のうつろう充実を求めていることに気づく。


だから
この世界の充実を求めている私を赦す。
この世界こそが私のすべてだという信念を赦す。
そしてそう信じ込んだ大元である罪悪感を赦す。
聖霊に取り去ってもらうよう願う。


この世界に見えるものは私の投影だから、
私に見える世界が、不平等だったり争い、不満、怒り、欠乏であるなら、私にそれらの信念があるに違いない。
それらの信念は私がやっちまったという罪悪感から来ているものだ。
あまりにも罪の意識が大きくて、罪悪感が苦しくて、
逆ギレして神に怒り、イライラして、
それでも神を恐れるあまり、
罪を犯したという信念、罪悪感があること、
神を恐れていることに
目を背け続けているんだ。
目を背け、子供がおもちゃで遊ぶかのように、
かりそめの充実を求めているんだ。

その私をひとつひとつ赦し、
聖霊の助けによって取り除いてもらい続け、
私がまったき神の愛の中に戻るなら、
私に見える世界は、愛の世界に変わる。
それは世界を救済するということだ。

世界を救済するという役目を神からいただいている。
そのために神から与えられている機能はたらきが赦しだ。


よし、赦しをしよう。
私の赦しをしていこう。



昨日くらいから
私に一番近いところにいるLinpの言動に動揺する自分を見ている。

え?自分だけ?私もそれを使ってるのに。
いやむしろ私が使ってたのをLinpも使ってるのに。

私手が痛いって言ってるのに。
あれもこれもやるのは手が痛くてけっこう辛いのに。

今までは、そう思うたびにLinpを心のうちに裁いていた。
こうしたらいいのに。
わかってくれてもいいのに。
自分のことばっかり・・
などなど。

でもこれ、違う。
Linpも私の投影。
私が見ているLinpの言動は、私の信念から出ている。

だからLinpを変えようとしたり、
Linpに不満を持ったり、
Linpを裁いたりするのは違う。

全部私の赦しの機会だ!


初めて素直にそう思えたかもしれない。

今まで頭ではそうだと思っていても、
心がLinpを罰していた。

それはLinpを罰しているようで、
私自身を罰していること。
私自身の有罪性を強めていることだ。

私自身を赦そう。

私が罪を犯したから、
見下される存在だ。
軽んじられる存在だ。
大事にされない存在だ。
私は我慢しなければならない、耐えなければならない。
この信念を赦し、取り去ってもらおう。

罪悪感を取り去ってもらおう。


私の信念を一番色濃く映し出してくれるのが、
もっとも近くにいる存在だ。
家族、パートナー、時にはペットも。

一番自分の素の要望が出やすい相手だからこそ、
より鮮明に自分を投影するのかもしれない。


ありがとう

記事内容を気に入っていただけましたら、サポートしていただけると嬉しいです!