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聖霊とともに行う赦しの具体例と聖人による赦しの実例(1/3)
今回は、具体的な赦しの実践と、偉大な聖人たちによる赦しの実例を挙げることで、聖霊とともに赦しを行うことの重要性を説明していきたいと思います。
まず、あなたは自分一人で赦しを行うことは絶対にできないことを知っておくことが何よりも大切です。
なぜなら、赦しが真に意味するところは、聖霊の赦しがあなたを通して為されるがままにしようという、あなたの「決断」にあるからです。
この世界において、個人としての自己で存在しようとするなら、あなたは自我(エゴ)に完全に同一化しています。
自我による間違った思考体系をその内側から変えることはできません。
あなた自身があなたを奇跡へと導く者にはなれない。なぜなら、奇跡が必要となる状況をもたらしたのはあなた自身だからである。(T-14.11:7)
あなたは未だに神の意志であるあなたの無罪性を否定しているが故に、あなたの罪悪感を自身の手によって取り除くことはできないのです。
あなたには自身が既に同一化している思考体系の外側からの助けが必要です。
その思考体系の中に入ってきて、それを変容させる助けがあなたには必要なのです。
自我の思考体系の外側からくるそうした助けが、まさに聖霊なのです。
ですから、聖霊があなたを通して赦しを行う主体になるのです。
ここまでを踏まえて、日常生活においての具体的な赦しの実践を紹介していきたいと思います。
例えば、あなたが静かな部屋の中で座り、これから聖霊や「真の自己」へと想いを向けようとしているとします。
もしくは、仕事や日常生活をしながらも心は聖霊とともにいようとしているとします。
そこにAさんが急にやってきて、侮辱や非難といった行為によってあなたを動揺させるとします。
そして、あなたはそのとき聖霊とともにいない、つまり正しい心の状態にいないと仮定します。
あなたはその時点で自我を教師としているがために間違った心の状態にいるということです。
そのときのあなたは恐れを抱き、罪悪感を感じているために聖霊が自分とともにいるとは信じていません。
その理由はAさんがやってきて、あなたに向ってありとあらゆる理由で誹謗中傷しあなたを責め立てたからです。
自我と一体となっているあなたは罪悪感によって、Aさんからあなたへの攻撃は正当性のあるものだと信じることになります。
これは、Aさんが言ったこととは全く関係がありませんし、さらにAさんが言っていることが真実かどうかにも関係ありません。
あなたがすでに罪悪感を感じているというその事実が、「私は自分が誰かや何かによって処罰されるべきだ」という信念を強化させます。
ですからAさんがやってきたとき、あなたの罪悪感によって自身に訪れるだろうと信じているまさにそのことを、Aさんはあなたに行なうことになります。
なぜなら、あなたの信じている罪悪感という原因が、処罰という結果をこの世界に招き寄せるからです。
この世界は「原因」と「結果」による法則で成り立っているが故に、原因が「罪の意識」であれば、当然ながら結果は「罰せられる」ということに帰結します。
このことから誰も逃れることはできません。
それによって、あなたには二つのことが起こります。
まず最初に、Aさんからあなたへの攻撃は、あなたがすでに隠し持っている罪悪感のすべてを強化します。
その次に、それは、Aさん自身がすでに隠し持っている罪悪感も強化します。
なぜなら、Aさんがすでに罪悪感を持っていなかったら、Aさんがあなたを攻撃するはずがないからです。
こうしてAさんからあなたへの攻撃は、Aさん自身の罪悪感を無意識下で強化させます。
この状況において、あなたはただ黙ったまま、Aさんからの攻撃をただ甘んじて受けることはしません。
あなたは二つのうちのどちらか一つの行動を取ることになりますが、その結果はどちらも同じになります。
一つ目は、どんな酷い扱いを受けたかをあなたがAさんに表明するというものです。
「Aさんがどれほどの苦しみを私にもたらしたか、私がどんなに惨めな気持ちでいるか、そしてそれはAさんの誹謗中傷のせいであることをよく見てほしい」
というものです。
あなたがここで必死に伝えようとしていることは、
「Aさんが私に対して行なった酷いことのせいで、私は今苦しんでいる」
ということです。
これは、Aさん自身がしたことの故に、罪悪感を目一杯感じるべきだということをAさんに示すためのあなたのやり方です。
これと同じ結果を生み出す二つ目の方法は、Aさんに反論するというものです。
あなたはAさんに対して
「よくも私にそんなことが言えるわね。 Aさんの方こそ間違っているくせに・・」
と言い返します。
これは、言葉や態度としてあなたが外に出しているかいないかの問題ではなくAさんに対してあなたがそのように見ているかどうかの問題です。
あなたの側で行なわれるこれら二つの方法は、実際には、Aさんがあなたにしたことを理由に、Aさんに罪悪感を負わせる方法です。
あなたがそれをAさんに対してしているということ自体が、あなたがAさんを攻撃していることにほかならず、あなたはそれ故に罪悪感を感じることになります。
そして、既に罪悪感を感じているAさんの上に、あなたが罪悪感をさらに押し付けているという事実が、Aさんの罪悪感を強化させます。
ですから、Aさんの罪悪感があなたの罪悪感に直面したそのときに何が起こるかというと、二人はお互いの中にある罪悪感を強化し合っていることになるのです。
そして、お互いがますます、それぞれが住処として信じてきた罪悪感の象徴である肉体という牢獄にお互いを幽閉することになります。
これが、個人レベルであろうと、集団レベルであろうと今でも変わりなく当たり前のように行われているのがこの世界の姿です。
こうして、あなたはお互いの間で罪悪感という時限爆弾をなすり付け合いながら、どちらの側でその爆発という処罰が決行されるのかを押し付け合っているのです。
しかし、爆弾がどちらで爆発しようとも自我にとってみればどうでもいいことです。
なぜなら、その爆風という被害を受けるのは結局のところ自我に同一化したすべての兄弟姉妹に及ぶからです。
そのことに気付くまで罪悪感という原料でできた爆弾の威力はますます強力になり、それに比例してその被害は拡大するだけです。
それは世界の情勢、そしてこれまでの歴史を見れば至極明らかです。
あなたが完全に喜びに溢れていないときはいつでも、その理由は神の被造物たちのひとりに対して、愛が欠如した反応をしたからである。これを「罪」と知覚するあなたは、攻撃されることを予期して防衛的になる。このように反応するという決断はあなたが下したものであり、したがって、それは取り消し可能である。それは普通の意味の悔い改めによって取り消すことはできない。なぜなら、それは罪悪感を暗示しているからである。罪悪感を感じることを自分に容認するなら、あなたは誤りを取り消してもらう代わりに、それを強化することになる。(T-5.7:5)
では次に別の可能性も見ていきたいと思います。
Aさんがここにやってきて、あなたを非難するとします。
けれどもあなたは今、正しい心の状態にいて、自分自身について気持ちよく感じています。
神や聖霊は私と共にいるし、私を愛してくれているので、どんなものも私を傷つけることはできないとあなたは知っています。
Aさんがあなたに何をしようと同じことです。
なぜなら、私は神と聖霊が私と共にいることを知っているからです。
このとき、あなたは完璧なる安全な住処で休息しているが故に絶対的な平安を感じています。
Aさんが何を言おうと、そしてまた、それが何らかのレベルでは真実だとしても、より深いレベルでは真実ではあり得ないということを知っています。
なぜなら、あなたは自分が神の子なので、父によって完全に愛されていると知っているからです。
Aさんのどんな言動も、このことをあなたから奪うことはできません。
あなたがこのように正しい心の状態にいるとするなら、あなたにはAさんがしたことを別の視点で見る選択があることになります。
その選択とは聖霊とともにいることによる愛の視点です。
完全なる愛は恐れを取り除く。もし恐れが存在するなら、完全なる愛はないことになる。 しかし、完全なる愛だけが存在する。もし恐れがあるなら、存在していない状態が作り出される。これを信じなさい。そうすれば、あなたは自由になる。神だけがこの解決法を確立することができ、この信こそが神からの贈り物である。(T-1.6:5-4)
このことが意味することは、完全な愛はただ恐れを取り去るだけでなく「罪、罪悪感、そしてあらゆる形の苦しみと怒りを取り去る」ということです。
神の愛に満たされ、それと一体感をもっている人が、恐れたり怒ったり後ろめたく感じたり、誰か他の人を傷つけようとしたりすることはあり得ません。
神の愛を感じ、心が平安で満たされていながら他人を傷つけようとするなどということは、絶対にあり得ないことです。
そのようなことは、全くもって不可能なのです。
もし、Aさんがあなたを傷つけようとしているのであれば、その瞬間においてAさんは、自分が神の愛で満たされているとは信じていないということになります。
その瞬間、Aさんは自分を神の子と同一視してはいませんし、神を自分の父だとは信じていません。
その上、Aさんは自我と一体となっている状態にいるので脅威と罪悪感を感じています。
この脅威と罪悪感は神が自分を捕まえに処罰しにくると無意識下で信じていることが原因にあります。
こうした罪悪感のすべてをなんとかするためにAさんにできることは、あなたに罪の意識を投影してあなたを攻撃することしかありません。
これが、自我が常に行なうことです。
したがって、あなたを侮辱したり非難したりするAさんの攻撃的な言動は、本当は次のように言っているわけです。
「どうか、私が間違っていると教えてほしい」
「お願いだから、私を愛する神がいると教えてほしい。そして私は神の子だということも」
「私が自分にとってはありえないと信じている愛が、本当は私のためにそこにあることをはっきりと示してほしい」
と。
ですから、どんな攻撃も、「助けを求める呼びかけ」か、「愛を求める呼びかけ」かのどちらかなのです。
聖霊は、すべての攻撃を「助け」か「愛」を求める呼びかけとして観ます。
なぜなら、もし人が愛を感じていたなら、攻撃することは決してできないからです。
攻撃の様々な手段は、その人が自分が愛されていると感じていないという事実の一表現に過ぎません。
ですから、それは「愛と助けを求める呼びかけ」なのです。
それが語っていることは、
「私を愛している神が本当に存在すること、私が神の子であり、エゴの子や罪深き人の子ではないことをはっきりと示してほしい」
というあなたに対する懇請です。
もしあなたが正しい心の状態でここにいるなら、そのような呼びかけをあなたは真に聴くことになります。
攻撃の中に、「愛と助けを求める呼びかけ」を聴くのです。
そしてその時、あなたは神の愛と一体感を感じているのですから、その愛を延長させていくこと以外にどんな反応ができるでしょうか。
あなたがその攻撃に対し具体的にどのような形で反応するかは、聖霊の導き次第です。
あなたが正しい心の状態にいるなら、あなたは聖霊に尋ねるでしょうし、聖霊はあなたがどう反応すべきかをあなたに示してくれるでしょう。
あなたの行動の形態が重要なのではありません。
大切なことは行動や行為を変えることではなく、私たちの考え方、そして世界の見方を変えることだからです。
世界を変えようとするのはやめなさい。そうではなく、世界についてのあなたの心を変えることを選びなさい。(T-21.in.1-7)
私たちが、聖霊に倣った考え方をするなら、私たちが行なうすべてのことが正しい行動となります。
もし愛が私たちの胸の中にあるなら、私たちが行なうすべてのことが正しくなります。
愛が私たちの胸の中に無いなら、何を行なっても、それはすべて間違ったものとなります。
ですから、Aさんがあなたを攻撃している只中であなたに必要とされているのは、それに対して「私が何をすべきか」ということではありません。
そうではなく、「どのようにすれば、正しい心の状態に留まっていられるか」ということです。
そうすれば、あなたがこれまでの経験によって自分が何をすべきかといった自我による狭量で傲慢な見解から、謙虚な姿勢で聖霊に尋ねることによってAさんに愛が延長されるようになります。
助けが求められている状況において、次のように考えるならば、あなた自身の癒しのため、また他の人々の癒しのために、あなたは多くを行うことができる。私は、真に助けとなるためだけにここに居る。私は自分を遣わした聖霊の代理としてここに居る。 何を語り、何を為すべきかを、案ずる必要はない。私を遣わした聖霊が私を導くからである。(T-2.5:A18 太字による強調はリンプ による)
再び言いますが、もしあなたが正しい心の状態にいれば、あなたはAさんの攻撃を「愛と助けを求める呼びかけ」として捉え、それが攻撃だとは判断しません。
この「判断」という概念は極めて重要になります。
繰り返しますが、聖霊によれば、世界中のあらゆる人やものについて下せる判断は二つしかありません。
それは「愛の表現」か、「愛と助けを求める呼びかけ」かの二つに一つです。
この他に可能な選択肢はありません。
このように考え始めると、この世界に生きることは非常にシンプルなこととなります。
もしも誰かが私に愛を表現しているなら、私もその人に愛を表現する以外にどんな応答ができるでしょうか。
もし私の兄弟姉妹が、見かけ上は攻撃に見えてもそれが真に意味しているのは「愛と助けを求めて呼びかけているのだ」と判断したとしたら、その求めている愛を与えること以外にどんな応答の仕方があるでしょうか。
ということは、私たちが何をしようと、世界が私たちに何をしているように見えようとも、私たちの応答は常に「愛による応答となる」ということで、すべてが全くといっていいほどシンプルになります。
すべてのものごとを「愛の表現」か、「愛と助けを求める呼びかけ」であるか、どちらか一つであるとして眺めるなら、あなたは常に同じ応答の仕方をすることになります。
つまり、「愛をもって応答する」こと、それが意味するのは「あなたの中の愛を兄弟姉妹に差し出す」ということです。
あなたがこのように決断するなら、あなたには改めて選択し決断し直すという今まで認識できなかった「決断の主体」に自身を戻すことができるようになります。
決断は難しいものではあり得ない。もしあなたが、自分が完全に喜びに満ちていないときにはすでに自分は喜ばないと決断したに違いないと気づくなら、決断が難しくないということは明白である。したがって、取り消しのための最初の一歩は、自分は積極的に誤った決断をしたが、同じく積極的に別の決断ができると認識することである。このことに関しては、自分自身に対して断固とした態度で臨みなさい。そして、取り消しのプロセスを充分に自覚し続けていなさい。それはあなたから生じるわけではないが、それでも、それは神があなたの中に置いたものであるから、今もそこにある。(T-5.7:6)
冒頭で示した
”赦しが真に意味するところは、聖霊の赦しがあなたを通して為されるがままにしようという、あなたの「決断」にある”
ということを思い出してください。
あなたの役割は単に、誤りが犯された「決断の主体」の地点まで自分の思考を戻し、それを平安のうちに聖霊に引き渡すことだけが要求されています。
あなたからのごくわずかな招きに対してでも、聖霊は充分に応えてくれるということを思い出しながら、できる限り誠実に聖霊に次のように言ってみることです。
「私は心安らかではないので、誤った決断をしたに違いない」
「私は自分でこの決断をしたが、別な決断をすることもできる」
「私は心安らかでいたいので、別な決断をしたい」
「私は罪悪感を感じることはしない。聖霊に任せれば、私の間違った決断の結果はすべて取り消してもらえるからである」
「私は、聖霊に私に代わって神を選ぶ決断をしてもらい、私の間違った決断の結果を取り消してもらうことを選択する」
あなたが悲しんでいるとき、こうである必要はないと知りなさい。憂うつとは、ほしいのに手に入らない何かが自分から奪い取られている、という感覚から生じるものである。あなたは、自分自身の決断によらなければ、何も奪い取られはしないことを思い出し、それとは違う決断をしなさい。あなたが不安であるとき、不安感は自我の気まぐれから生じると認識し、こうである必要はないと知りなさい。あなたは、自我の命令を守るのと同じくらい、それに対抗するためにも警戒することができる。(T-4.4:3)
あなたが罪悪感を感じるときに思い出すべきことは「自我は確かに神の法を犯してきたが、あなたは犯していない」ということです。
自我による罪悪感は聖霊に預け、そして任せることです。
そのために聖霊はいるのです。
しかし、あなたの自我が傷つけた者たちについてあなたが自分の心を変えるまでは、聖霊はあなたを助けることはできません。
なぜなら、あなたが罪悪感を感じている間は、あなたの自我が指揮権を握り、また決定権を行使しているからです。
自我のみが罪悪感を経験できるということを覚えておけば、もう一度決断し直すことをあなたは選択できるようになります。
私からあなたへの唯一の贈り物は、あなたが同じ決断をするのを助けることである。この決断とは同じ決断を分かち合うという選択である。なぜなら、その決断自体がまさに、分かち合おうという決断だからである。その決断は与えることにより為されるので、真の創造に類似する唯一の選択である。私はあなたにとっての決断の手本である。神を選ぶ決断をすることによって、私は、この決断が可能であり、あなたにもその決断ができることを、あなたに示した。(T-5.2:9-3)
聖霊とともに行う赦しの具体例と聖人による赦しの実例(2/3)に続く
あなたはもう一人ではありません。
なぜならあなたは神に創造されたままの完璧な存在として
今でも愛されているからです。
神の子にはどんな苦しみもあり得ません。
そして、あなたはまさしくその神の子であり、
それがあなたの「真の自己」なのです。
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〜あなたの最奥の自己から愛を込めて〜
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