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奇跡講座WB実践55 復習21~25

第一部
レッスン55 復習(レッスン21~25)
21 私はぜひとも別な見方でものごとを見たい。
22 私が見ているのは、復讐の一形態である。
23 攻撃的な考えを放棄することで、私は自分の見ている世界から脱出できる。
24 私は自分の最善の利益を知覚していない。
25 私は、何が何のためにあるのかを知らない。

奇跡講座下巻 受講生のためのワーク


病気、争い、災害、危機、問題、死、etc…….
私が見ているのは、あらゆる者があらゆるものを攻撃するような出来事。
それは私の中にある攻撃的な考えが見せているもの。

そんな攻撃的な考えなど捨ててしまいたい。
そんな攻撃的なことなど目にしたくない。

早くこの攻撃的な考えを取り去ってください!
そう聖霊に願うけれど、ぱっと無くなるものではないから
ちょっと苦しくなる。
そうならないのは自分が未熟だからなんじゃないかと、
自分を責めたくなる。
自分を攻めるのも、攻撃的な考えに他ならない。

私ができるのは、
その自分の攻撃的な考えがあることに気づき、認め、
その攻撃的な考えを取り去ってくださいと願い、
真に見たいと望むこと。


攻撃的な考えは、私の防衛だ。
神から分離してしまったと思い込んだ罪悪感と、
そのために神に罰せられるという恐怖、不安、焦燥感から生まれたものだ。
恐ろしいから防衛する。恐ろしいから攻撃する。
その投影なんだ。

その罪悪感、恐れをひとつひとつ取り去ってもらっていくことで、真実の私を思い出していくことができる。


真実の私。
それは神と共にある私。
神と共に神が創造した世界にいる私。
神は愛であり、その世界は平安と安全と喜びの世界だ。
そこには攻撃性はない。恐れもなく、一切防衛の必要もない。


私が考える私の利益は、この自我の世界の中から脱することがない。
そんな私が考える利益を得ることは、私をこの攻撃性の中に引き留める。
私の最善の利益は、聖霊がすべて知っていてそこに導いてくれる。
でも時にそれは私には恐ろしく感じることもある。
それでも私は聖霊に従いたい。


肉体の自由か、心の自由か。
どちらを望むのかとイエスは私たちに聞く。
両方同時には得られない。

肉体の自由か。
心の自由か。


心の自由を望みます。

目に見えるものが改善されても、それは一時的なものに過ぎない。
心に攻撃性があるかぎり、私の目に写る世界は攻撃性の世界にしかならない。

心から攻撃性が取り消されれば、
目に見える環境がどうであろうと、そこには平安と喜びがある。
それは神が私のものであるようにと意図したものだから。


それでも私はきっと、
この次の瞬間にこれまでの習慣を繰り返すだろう。
私の投影は私の考えが攻撃性に満ちていることを教えてくれるだろう。

それは聖霊の助けだ。
私の攻撃性をひとつひとつ見せてくれているのだ。
私が気づいて、聖霊に取り消しを願えるように。
そして真の自分が誰なのかを思い出すことを望むように。


聖霊は確かに私を導いてくれている。
私が自我の生き方にどっぷり浸かり、
自我の生き方こそが真実であると信じきっていたころから。
聖霊の声も聞こえず、自分は”知っている”と頑なだった時から。


あの時から!
あの時、何度も人の口を通して聞いていたことは
聖霊の導きだったのか。
あの時、考えてもわからなくて恐ろしかったけれど、
もうそこしかなくて、もう他になにもわからなくて、
ビルの屋上から飛び降りるような覚悟で踏み出した一歩。

でもそこにはしっかり聖霊がいて、私を受け止めてくれていた。
いつも私を支え、時に背中を押し、時に手をとってくれていた。


だから私は聖霊を信頼する。
変わらぬ愛を注いでくれている聖霊を信頼する。
たとえそれが私が望まないような形になるように思えたとしても
私は聖霊を信頼する。


私は攻撃的な考えを放棄する。
私は自分に対して抱いてきた思いも放棄する。

私は弱く醜く、何の役にも立たない。
太く美しくなく魅力がない。
大事にされない。見捨てられる。愛されない。

これを私はとても深く信じていた。
だから、そうでしょう?やっぱりそうでしょう?
と世の中にこれを証明するようなことを見ていた。

これをすべて撤回する。
そして真の私を、真の目的を受け入れる。
聖霊がそのように導いてくれるのだ。


私は真の私に還る!
私と接する人たちとともに、神とひとつであったところへ還る!
愛へ還る。

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