奇跡講座WB実践285 今日、私の聖性は明るくはっきりと輝く
なぜイエスなのか。
なぜ聖霊だけじゃなく、イエスを頼りにするのか。
これはイエスに聞くしかない。
朝、私はイエスに心の内を洗いざらいぶちまけた。
イエスからの言葉は特にない。
私がつっぱねてるのかもしれない。
だけど、心にあることを全部ぶちまけたらすっきりした。
溜飲が下がったって感じ。
何事もなく時は過ぎ、帰りにバスに乗った。
あるバス停でお年寄りが乗ってきた。
2人掛けの椅子に座っていた女性が立ち上がり、お年寄りの女性を奥に座るよう促した。
お年寄りが座ろうとしている時、運転手が言った。
「(バスが)動きますよ」
お年寄りが座り、立ち上がった女性が座るかどうかの時、
バスは動き出した。
私の目はそれを見、私の耳はそれを聞いて、
運転手さん、せっかちなのかな
そう思った。
もうちょっと待ってくれてもいいのにな・・・
その時、
それを見方を変えて見てみたら?
と。
あ・・・
心眼で見たらどうなるのか。
お年寄りのために待ってくれたらいいのにとか、
運転手さんがせっかちだなとか、
席を立った女性は親切だなとか、
それは今までの見方だ。
心眼で見たらどうか。
それを意識的にやってみようとすることはほとんどなかった。
”心眼で見る”がわからない。
キリストの心眼がわからない。
見れない。
今の私には見れないから。
だから”心眼で見る”ということを選択しなかった。
イエスがそっとそれを教えてくれた。
私がイエスに悪態をつこうと、怒ろうと、イエスの愛は変わらない。
イエスは悪態をつく私を見ていない。
イエスは文句を言う私を見ていない。
イエスは私の聖性だけを見ている。
私が神のひとり子であることだけを見ている。
イエスにすべて話してみようか。
日常のなかで、私が自我を選んでいるのに気づいた時、
私の心が抵抗しているのに気づいた時、
そのたびにイエスに聞いてみようか。
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