見出し画像

奇跡のコース実践記録32

★パート2 真の知覚の獲得への取り組み

13. 奇跡とは何でしょうか

レッスン 341
私が攻撃できるのは私自身の無罪性だけです。そして、私を安全に保ってくれるのは私の無罪性だけです。

レッスン 342
私はゆるしがすべてのものの上で安らぐようにします。というのは、こうすることによって、ゆるしが私に与えられるからです。

レッスン 343
私は「神」の慈悲心と安らぎを発見するために犠牲を払うことを求められてはいません。

レッスン 344
今日、私は愛の法則を学びます。すなわち、私が兄弟に与えるものは私に対する私の贈り物であるということを学びます。

レッスン 345
 私は今日、奇跡だけを差し出します。というのは、私は奇跡が私に戻ってきてほしいからです。

レッスン 346
今日、「神」の安らぎが私を包み、私は「神の愛」以外のものはすべて忘れます。

レッスン 347
怒りは価値判断から来るに違いありません。価値判断は、奇跡を私から遠ざけておくために、私が自分自身に対して使う武器です。

レッスン 348
私には怒る原因も恐れる原因もありません。というのは、「あなた」が私を取り囲んでくださっているからです。そして、私が知覚するすべての必要性に関して、私には「あなた」の恩寵で十分です。

レッスン 349
今日、私は「キリスト」のヴィジョンに私に代わってすべてのものを見させ、それらを価値判断せずに、それぞれに愛の奇跡を与えます。

レッスン 350
奇跡は「神」の永遠の「愛」を鏡のように映し出します。奇跡を差し出すことは「神」を思い出すことであり、「神」の記憶を通してこの世界を救うことです。


奇跡というのは、自分の外側に現れる、物質的変化だと思っていました。
聖書にある奇跡もキリストの復活だったり、水が葡萄酒に変わるとか、死者が生き返るとか病気が治るとかで、そういうものだと思っていました。
ある意味自分にとっては遠い出来事で、起きてほしいけど起こり得ないことだと信じていたかもしれません。
魔法みたいな感じ。

どうやらそれはまったく違うようです。

奇跡とは修正だとコースにはあります。
知覚の修正です。
それは天地が引っくり返るくらいの修正です。
出来事の見方が180度変わります。
本当に180度変わった時、
それが目覚め、覚醒、解脱などと言われる状態だそうです。


私はまだ覚醒していません。
毎日ゆるしの実践を重ねています。
時にできてない自分を責めたり、
わかってない自分を責めたり、
そんな自分をそのまま認めてゆるしの実践をします。
続けていると、ちょっとずつ
あ、見方が逆だな
ってことに気づくのが早くなってきたなと感じています。



近頃私の耳に入る会話について感じることがあります。

「○○が結婚したんだって。」
「えーっ!信じらんない」
「お風呂嫌いだって一週間くらい入らないらしいよ」
「えー、いやだぁ」
「あの人は自分の思い通りにやりたいから、その通りにいかないと機嫌悪くなるんだよ。」
「そう言ってるその人こそ自分の思い通りにやりたい人だよね」
「Aさんと一緒にやるのは嫌だ。」
「Bさんは言い方がキツいよね。」

ぶつかり合う人々。
当人がいないところでそれぞれに非難し合う人々。
誰かの噂話。ネガティブ傾向の話が大半です。

こういう会話を今までは私の外で起きている会話だと聞いていました。
人事って感じ。

そんなふうにネガティブなことに目を向けなきゃいいのに。
人のことをあれこれ言っても仕方ないのに。
あの人がいないところではあの人のことを悪く言って、この人がいないところではこの人を悪く言ってる。
お互いに悪く言い合ってる。

人のことをあれこれ言わない方がいい。
そんな考え方をしないでこう考えたらいいのに。
そんなこと言ってると自分もどこかで何か言われるよ。

今でもそのように聞いていることがあります。
これは、その話をしている人達と私は分離しているという見方です。
自我の見方です。

こういう見方をすると、言っている人を批判したくなったり、相手の間違いを正したくなったりします。
その人と自分は別の存在だと思っているからです。


このことに気づくと修正が起こります。

起きていることはすべて私の投影ですから、私の中にあることが見えているだけなのです。

ネガティブな話、お互いを非難し合う話が耳に入ってくるということはどういう思いが私の中にあるのか。

やっぱり人は信頼できないものだ。
私も信頼されないんだ。
きっとこの人たちは私のことも何か非難しているに違いない。
この人たちは一緒にいたい人たちではない。

分離を強める思考です。
この思考の元には罪の意識があります。
自分では認識できない罪の意識。
それは神からの分離を望んでしまった、そして分離してしまったという罪。
それによって持ってしまった巨大な罪悪感。

本当は分離など不可能なのです。
分離したと思い込んでるけど、実際、分離などしてないのです。
だから罪は犯していないし、起きていないのです。
だから罪悪感を持つ必要などないのです。

でも私たちは自分では認識もできないどうしようもない罪の意識を抱え、巨大な罪悪感を持っています。
だから恐れ、不安、疑いを持つような出来事が目の前に現れるのです。

この罪の意識、罪悪感を取り去ることができるのが聖霊です。
聖霊だけが取り去ることができます。
聖霊だけが私のどこに罪悪感があるのか、どうやったら取り去れるのかを知っているからです。


このことを思い出しゆるしの実践をしました。
するとまもなく気にならなくなりました。
これを繰り返すうちに、同様の会話を聞いてもネガティブな方向に引っ張られることがなくなってきました。
ただ耳に入ってきた会話をそのまま流す感覚です。



さらに先日このようなことがありました。

朝、挨拶したTさんはいつも通りに見えました。
でも数時間後、Tさんの気分が落ちているのを感じました。
私は私の作業をしていたのですが、気分が落ちて声が暗くなっているTさんを見て、いつもの癖が出ました。

私のやり方がなにか間違ってるかな?
私の態度で変なところがあったかな?

あれ、また自分を責めてるなと気づきました。
真実の私は神とひとつです。
私は愛されているのです。
間違いはなく、変なこともありません。
それは私だけでなくTさんも同じです。

Tさんも大丈夫。
Tさんは間違っていない。
Tさんは何も悪くないよ。

胸にその思いが膨らみ、Tさんをその思いで包むイメージが湧きました。

すると数分後、Tさんの心がふっと緩むのを感じました。
Tさんの声が柔らかくなり、顔には笑顔が戻ってきました。
私はTさんの無罪性を見ただけです。
私の無罪性を見ただけです。


これまでなら、どうかした?どうしたの?と”Tさんの問題”を解決したいと思い行動しがちでした。
私の投影ですから”Tさんの問題”ではないのです。
解決しなければならない”問題”は何もないのです。
ただ聖霊が見るように私自身を見ただけで”問題”と見えたことは消え去りました。



起きた出来事をどう見るか。
自我の視点で見るか、
聖霊の視点で見るか。

どうしても私のことではなく、相手のことだと思って見てしまいます。
今までずーっとそう見てきたのです。
今世だけではなくそれ以前からずっとです。
何百年、何千年かもしれません。

これからは聖霊の見方で見ると決断しても、すぐにこの癖がなくなるわけではありません。
目の前に起こる出来事はすべて、この癖に気づき、癖を手放し、
聖霊の見方で見るための素晴らしい練習の機会です。

続けるうちに、聖霊の見方で見ることができるようになっていきます。
もう分離の見方ではなくなります。
自我の見方ではなくなります。
見方が修正されるのです。


これこそが奇跡です。
四面楚歌に見えていた世界が、愛に溢れた世界に変わります。
もう怖れも不安も疑いもありません。

これが奇跡です。
この奇跡に、聖霊が必ず導いてくれます。
だから勇気をもって、決断し、聖霊の手を取っていくのです。


Ruru

記事内容を気に入っていただけましたら、サポートしていただけると嬉しいです!