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奇跡のコース実践記録31

★パート2 真の知覚の獲得への取り組み

12. エゴとは何でしょうか

レッスン 331
いかなる葛藤もありません。というのは、私の意志は「あなたの意志」だからです。

レッスン 332
怖れはこの世界を縛ります。ゆるしはこの世界を自由にします。

レッスン 333
ゆるしはこの世界での葛藤の夢を終焉させます。

レッスン 334
今日、私はゆるしが与えてくれる贈り物を自分のものであると宣言します。

レッスン 335
私は私の兄弟の無罪性を見る選択をします。

レッスン 336
ゆるしは多くのマインドが一緒になっていることを私に教えてくれます。

レッスン 337
私の無罪性はあらゆる害から私を守ってくれます。

レッスン 338
私は私の思いによってだけ影響を受けます。

レッスン 339
私は私が要請するものが何であれ、すべて受け取るでしょう。

レッスン 340
今日、私は苦しみから自由になることができます。


実は私たちは自分自身のこと、起きる出来事を
自我(エゴ)でしか見ていません。
浮かぶ考え、判断、湧き出す感情。
すべて自我です。

自我ということを学びの中で知ってから、
私は時折、

自我にとらわれてたー、
自我にやられたー、
自我に巻き込まれてたー、

などと思ったり言ったりしてきました。

残念!

自我に影響を受けた”時”があるのではありません。
年がら年中、365日24時間、自我の見方で世界を見、
考え、判断し、それに反応してきたのです。
二元の見方です。
それも当たり前。
この世界は二元の世界なのですから。


私はこの身体だと思っているので、
病気になると治そうとします。
具合が悪いと病院へ行くか、薬を飲もうとします。
病気にならないように食事に気をつけようとします。

この身体以外は自分以外だ判断するので、
私とは違う他人がいると見ます。
自分以外の存在があることによって比較が始まります。
比較によって勝手に序列を作ります。
あの人よりいいとか悪いとか。
自分はダメだとか、一番になりたいとか。

これによって葛藤が生まれます。
争いが生まれます。
喜怒哀楽豊かな、人間関係が現れます。


今世だけじゃなく、もうずっと長いこと、数百年か数千年か、
ずっと自我に従って生きてきたのです。
ひとつだった神から分離して(本当は分離は起きてないけど)、
この物質世界で転生を繰り返してきたのです。

この世界はすべて私が創り出した幻想です。
分離したと思い込み、深く抱え込んだ罪悪感が投影された世界です。
この世界は怖れです。
怖れから不安が生じ、自分を脅かすように見えるものから守ろうとします。

すべてのものは変化します。
感情も思考も信念も、変化し続けます。
この世界に不変のものは何ひとつありません。
生まれ、滅び、繁栄し、衰退します。
喜びも楽しみも、悲しみも怒りも永続するものではありません。



私たちはすっかり忘れていますが、神とひとつである意識です。
神は愛です。ゆえに私たちも愛です。
一切の心配も不安も怖れもない、満たされた平安の中にいました。

でも神の愛から離れてしまったと信じています。
命に限りある身体を持って生きる存在だと信じています。

神は私たちが神とひとつだったところに還ることを望んでいます。
その場所、還り道を知っているのが聖霊です。
私たちが還れるように、身体を持った私たちの中に聖霊はいて、
私たちが一切気付いていなくても、ずっと還る道を示しています。



自我の導きに従い続け、この世界で転生を繰り返すか、
聖霊の導きに従う決断をし、神とひとつであったところに還るか、
それを選択する自由意志を私たちは持っています。

ある時は自我に従い、ある時は聖霊に従うというようなことはできません。
自我か聖霊か。
どちらかの手しか、私たちは取ることができません。


今世で私は聖霊の導き従う決断をしました。
自我の手を離して、聖霊の手を取る決断をしました。

自我の声に従って生き、様々な得たいものを得る経験をしましたが、
そこに願った幸せはなく、何を得ても不安と怖れは消え去ることがありませんでした。
そしてすべてを失う経験もしました。
それはものすごい怖れの経験でしたが、命を失うようなものではありませんでした。
むしろその経験のお陰で、無用な信念や誤った価値観をどんどん手放していくことができました。
空いた場所に、聖霊からの真実に向かう情報が少しずつ入ってきたのです。


自我は私の手を離そうとはしません。
私の手を離すことは自我の消滅を意味するからです。
聖霊を選ぶ決断をした途端、
自我はこれまでより大声でたくさんの誘惑をしてきました。

身体に不調が現れました。
久しぶりの動けないほどの頭痛。
関節の痛み、疲れ、蕁麻疹。嘔吐。
むくみ、シワ、白髪などもそうです。
この身体こそが私なのだと思わせるようなことです。

人間関係では、理不尽さを感じる出来事が起きたりしました。
言い返したい思いに駆られます。
私がちゃんとやれていないと思うようなこともいろいろありました。
人に気を使って自然体じゃなくなってる自分に気づきました。
自分と違う相手が存在すると思わせるようなことです。


これらの出来事は、私の誤った信念、罪悪感に気づかせてくれるものです。

人に合わせないと嫌われる。
ちゃんと卒なくできなければならない。
私は人に理不尽に言われるような人間だ。
私のせいで遅れてしまう。
年齢を重ねても若さを保ちたい。
病気をしないようにしたい。

これは私の罪悪感の投影です。
ネガティブに感じる出来事は、
私の中の罪悪感がいろいろな形で投影されたものです。

神から分離してしまった。
神から罰せられる。恐ろしい!と思い込んでしまった私たち。
持ってしまった巨大な罪悪感。

でも本当は分離は起きていないのです。
神が罰することはないのです。
罪悪感を持つ必要は全くないのです。

自我はこの罪悪感を持ち続けさせることで、
神の元に還ろうとさせないようにしています。
この分離の世界に留まらせようとしています。
そうすることで、自我もあり続けることができるからです。


聖霊は、この罪悪感を取り去ることができます。
私たちがこの罪悪感に気づき、取り去ってほしいと望むとき、
聖霊は喜んで瞬時に取り去ってくれます。

私たちはそれがどこにあるのか、どうやって取り去れるか知りません。
聖霊にお願いする以外に取り去る方法はないのです。

ネガティブに感じる出来事が起きた時、それは最大のチャンスです。
罪悪感を聖霊に取り去ってもらえる、最大のチャンスなのです。


初めは激しく抵抗します。
言い返したい。
この世界が幻想だなんて信じられない。
この身体がないとか、信じられない。
それもすべて自我の抵抗です。
真実に近づけさせまいとする自我の抵抗です。

これにゆるしの実践がとても効果的です。
よくわからなくても、聖霊について半信半疑でも、
ゆるしの実践を続けていくと、だんだん抵抗が弱まり、
受け入れることができるようになっていきます。
そして理解が体感を持ってやってきます。


体感こそが、神とひとつであるところに還るのに必要なことです。
頭でわかっているだけでは神のもとに還ることはできません。
でも頭でわかっていることが、正しい実践のためには必要です。

私たちは自分が理解しやすいように勝手に解釈してしまいます。
それは間違った実践をさせ、真理に近づけまいとする自我の罠です。


でも自我は悪者ではありません。
この物質世界で生きるためには、自我が必要でした。
身体を維持したり危険から身を守ることで生き、
様々な思考、感情の体験をすることができるのです。

この世界で生きている限り、自我を無いものにはできません。
自我を見ないようにするのではなく、
湧いてくる感情、思考が、自我からのものであることを見て、
その上で聖霊の声に耳を澄ませ、
聖霊が見るようにこの世界を見ていくことで
神とひとつであったところに還ることができるのです。


Ruru


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