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ただ聖霊に差し出す

すべて聖霊に捧げる。
聖霊に持っていき、差し出す。

それだけ。

その感覚。


ああ、私は自分をどれだけ傷つけたかったんだろう。
自分を傷つけることができるチャンスを逃すまいと、
どんな小さなチャンスも逃すまいと、
どれだけ見張っていたんだろう。
そして見つけると、狂喜乱舞してここぞと自分を責め傷つけ苦しめてきたんだろう。


神に取り返しのつかない罪を犯してしまったから、
(罪を犯したと信じたから)
そんな罪深き私は、
愛されるはずがないと信じた。
苦しまなければならないと信じた。
傷つけられなければならないと信じた。
醜くなければならないと信じた。


信じていることが投影されるこの世界。

人間関係、災害、生老病死、愛別離苦。


赦しをしている時でさえ、
赦しができなかった、
気づいていたのに赦しをせず流してしまった、
赦しをしたくなかった、
赦しをしてるのに変わらないのは私のやり方がまずいからか、
もっとたくさんやらなければならないのか、
などと自分を責め傷つける。


肉体の目で見たことを現実だと思ってしまう。
頭で解釈する前に、相手を裁いてしまう。
相手が自分とひとつであると見れない。
どうしても自分とは違う存在だと見てしまう。
それらに気づいて、また自分を責める。

心眼で見れないのは、私がまだまだだからだ。
一瞥体験が私に起きないのは、私がなにか足りないからだ。
幻想世界ではなく実相世界に生きたいと願うけれど、
何度も赦しをしてもいっこうに幻想世界こそが現実だと見ている。


私は自分にできると思っていた。
赦しをちゃんとできる。
赦しを続けることで心眼で見ることができるようになる。
赦しを続けることで実相世界に生きることができるようになる。
それを私が・・できる、そう思っていたようだ。



聖霊は私に教えてくれている。
私がいかにこの世界に留まっていたいと願っているかを。
私がいかに罪悪感を抱えているかを。
私がいかに罪を犯してしまったと信じているかを。
私がいかに私を傷つけようとしているかを。
私がいかに神に、イエスに、聖霊に怒り、見たくない、その声を聞きたくないと思っているかを。

真の私は知っている。
神は愛であることを。
愛でしかないことを。

真の私は知っている。
私は神に罪など犯すことなどできないということを。
イエス、聖霊は私を助けてくれているということを。

真の私は知っている。
肉体の私の心はまったくなにも知らないということを。
肉体の私にはなにもできないということを。

真の私は知っている。
私は肉体の私ではない、ということを。


肉体の私が信じている誤ったことを聖霊が教えてくれる。
その誤りに気づいたら、私はそれを聖霊に差し出そう。

これに気づきました。

そして赦しをしよう。

これを修正してください。
これを取り消してください。
これを取り去ってください。


その結果を期待し、その結果に一喜一憂する私に気づいたら、
それも聖霊に差し出そう。

結果を勝手に決めてました。
この誤った心を直してください。
聖霊を信頼します。


その先を思い煩わず、
ただ、今気づいたことを聖霊に差し出す。

それだけでいい。

聖霊は私がもっとも受け取りやすい道順で、
ゴールまで導いている。


ゴールは神とひとつである私。
その道順は私にはわからない。

だからすべて聖霊に差し出していこう。


自由だ。
感情は勝手に動くけれど、それでもいい。
動いた感情も聖霊に差し出す。


なにかを修復しようとしなくていい。
なにかを正そうとしなくていい。
なにかを助けようとしなくていい。
私にはどのように修復すればいいか、どのように正せばいいか、どのように助ければいいか、わからない。
ただ私の心の間違いを聖霊に差し出す。
それが一番、助けになるんだ。

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