奇跡のコース実践記録29
★パート2 真の知覚の獲得への取り組み
10.「最後の審判」とは何でしょうか
子供の頃、一枚の大きな絵をお寺に行くたびに見ていました。
それは地獄絵図でした。
父が説明してくれたのを覚えています。
幼いながらも何か恐ろしいところに思えて、絵を見るのは怖かったのですが、どうにも気になって見ちゃうのです。
閻魔大王によって裁きを受け、地獄に行くか天国に行くか決まるそうで、
地獄では生前の行為によって様々な罰が鬼から与えられていました。
天国の絵もあったような気がしますが、どんな絵だったかあまり記憶にありません。
それだけ怖れを激しく刺激する絵でした。
大人になってから、天国と地獄がどういうところかという話を聞きました。
仏教の経典か何かに書いてあるとのことでした。
この話を聞いたのは今から十年ほど前ですが、
聞いた時、「人に与えるようにしなくちゃ」と思いました。
今、この「人に与えるようにしなくちゃ」という思いが地獄の人々と同じ発想だというのがわかります。
自分が天国に住う人になりたいという思いが一番なんです。
コースを学び実践するようになって、上記したことはどれも
二元の見方、分離の見方だと気付きました。
そもそも天国と地獄というのがもう二元です。
さらに最近、ふと思ったのです。
幼い頃に見た地獄絵図は、この世界だ!と。
地獄とは死後に裁きを受けたあとの世界の一つだと思っていましたが、
違う!と。
食事の場面の地獄の世界は、まさにこの世界だと思われました。
私たちは自分の安全、自分の健康、自分の財産、自分の名誉を守ろうとします。
人の安全や人の健康を守るために自分のことを後回しにはしません。
(たいていの場合は)
「人に与えるようにしなくちゃ」と思っていた私がまさにそうです。
自分を安全に守るために、人に尽くそうとしています。
自分の安全を守るのが目的で、人に尽くすことを手段としているんです。
この物質世界は分離の世界です。
神から分離してしまったと思い込んだ時持った強烈な罪悪感からの
根深い怖れがあります。
この世界は幻想なのですが、この分離の世界でしか存在できない自我は、
守らなければならない、自分と他人は別の存在だという証拠を次々と見せます。
自分の分をまず確保しなければ、死んで無になってしまうと強く信じ込ませようとしてくるのです。
クリスチャンだった時に私が聞いた最後の審判も、閻魔大王の裁きに似て、
キリストが光に包まれて降りてきて、キリストと共に天に上がる人を選別するというものでした。
だから選ばれるようにと、敬虔なクリスチャン風に頑張っていました。
神は、裁くことはしません。
そもそも分離してないのですから、裁く必要など何もないのです。
神の意志はただ、私たちが幻想から目覚め、聖霊のようにこの世界をみることです。
すべてのもの、人、出来事を罪のないものとしてみること。
今まで信じてきたルールや常識とされてきたことに沿った価値判断をすべて手放し(それはすべて二元の味方だから)、
神の愛をすべてのもの、人、出来事の中に見ること。
どんな出来事も、すべてはわたしが目覚めて神とひとつであることを思い出すために起きているのです。
神とひとつであること、神の愛の中にあることは、不変です。
絶対の安心、絶対の安らぎ、絶対の幸福です。
分離の世界にあるものはすべて変化します。
変化しないものはありません。
そこに不安定さが生じるのです。
何かを得ても、幸福感が永続するわけではありません。
喜びが永続するわけではありません。
達成感が永続するわけではありません。
満足はすぐ不満に変わっていくのです。
私たちにはどうしたら今まで信じ込んできた価値判断を手放せるかわかりません。
どうしたら聖霊の見方で世界を見ることができるのかわかりません。
実は聖霊の見方で世界を見ようと頑張るうちは、聖霊の見方はできません。
自我の誘惑に負けないようにしようと頑張るうちは、聖霊の見方はできません。
頑張るのは自我だからです。
だから聖霊に任せるのです。
自分ではもうどうにもできないと、心底思った時、本当に聖霊に任せることができるのです。
明け渡しです。
そして神を、聖霊を信頼し、未来を委ねるのです。
そうする時、最後の審判によりこの世界にありながら神とひとつである愛に還ることができるのです。
先に学んでいる人も、これから学ぶ人も、
みんな一緒です。
みんなひとつです。
みんな聖霊に導かれ、一歩ずつ一歩ずつ愛に向かっているのです。
Ruru
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