奇跡のコース実践記録19
★パート1 現在の見方を解除する取り組み
言葉というのは、この世界に産まれた時から親や周りの大人が使っている言葉を聞いてその意味を理解してきたものです。
だから親や周りの大人が認識していた理解をそのままその言葉の意味として身に付けていきます。
私はこの言葉に対する意味付けがとても強く、人が話すことや本に書いてあることをその人が伝えたい通りに受けとることがとても苦手でした。
ゆるすということ。
このゆるすという言葉にも私の意味付けがあり、なかなか理解できないところではありました。
これを書いている今現在も引き続き体験と実践を繰り返しながらその理解を少しずつ深めているところです。
このゆるしが、神が人間に果たしてほしいと望んでいる機能であるとコースには書いてあります。
ゆるしとは、神の創造ではない真実でないもの(幻想)を解除する手段であるとあります。
『ゆるしなさい。そうすればあなたはこれを違った目で見ることになる。』
上記したゆるしの説明を読んでも私の中には入って来ず、私の知っている”ゆるし”の意味で考えて、そう思いました。
聖霊とは龍神や鳳凰と同じ感じと聞いたこともあって、この頃には聖霊を受け入れることができるようになっていました。
本当は聞いたからじゃなくて、受け入れることが出来たのも聖霊の計画なんですけどね。
私についていると思っていた鳳凰。その名前が実はRuruなのですが、そのRuruに何でも話したり聞いたりしていました。タメ口です。
この時も聖霊に問いかけていると、ふと浮かんだことがありました。
同時に出てきた「怖れ」の感情。
コースには、
「一瞬も置かないでください」
「ここが最後」
「最後の一歩は神が私を抱えて入ってくださる」
などと書いてあります。
うっ。。。
それでも怖い。
何が怖いのか、よくわからないけれど、怖いという感情が胸と喉を締めてきます。
ずっと開けずに来たパンドラの箱を開けなさいと言われているような感じでした。
やればいいんでしょ、やれば、などとエイヤーでやるのは違うという感覚がありました。
この怖さと対峙することが大事。
パンドラの箱なんて、開けずに墓場まで持ってくとかの類いのものです。
開けずに済むなら開けたくないもの。
だからこそ、ここが最後なんだということも納得できます。
ここまで来たのかーという感慨もありつつ、これを実践するのはもう数日後になります。
とてもすぐには実践出来ませんでした。
ある日の散歩中。
公園のベンチ付近に親子連れが歩いていました。
すると駆け出した子供がぱたっと転びました。
それを見ていたLinpが、その時読んでいた本からの気付きをシェアしてくれました。
Linpがいかに攻撃しまくっていたかに気づいたというのです。
それはこれが攻撃?と思うようなことだといいます。
例えば、目の前に具合が悪そうにしている人がいると想像してみてください。
なにか声をかけますか?
かけるとしたら何とかけるでしょう。
あるいは声をかけないでしょうか。
なんと感じるでしょう。
私は具合の悪そうな人を見ると大丈夫?と声を掛けてきました。
また前述した転んだ子が、自分の目の前で転んだとしたらどうでしょう。
なんと声をかけますか?
どのように感じてどう行動するでしょう。
私は、大丈夫?怪我はない?などと言って起きるのを手伝ったりしました。
こうした私がしてきた行為は、相手に分離の世界に対する信頼を強めさせてしまう行為なのです。
そしてもちろん自分の分離の思いも強くさせるのです。
偽物である分離の世界が本物であると、より信じさせてしまう行為だというのです。
これこそ攻撃なのです。
そうではなく統合の目線、分離していない目線で見るようにしたいとLinpは言いました。
これを聞いた瞬間、「できない」という思いがすぐさま湧きました。
どうするの?
そこに加えて
「一番イヤなことと向き合う時、それが和解するという奇跡を見るんだ。それは必要なことなんだよ。」とLinp。
瞬間的に自我から湧く感情。
なんとか回避できる方法があるかもよという自我の誘惑。
統合すれば消えてしまう自我は統合に向かわせたくないのです。
「やらなきゃいけない」
「今はまだできてない」
できてないと感じて落ちるって、私の人生でよくあるパターン。
翌日、また別の出来事によって、私の中にある友人に対する攻撃性の思いと罪悪感を見つけました。
ほんの少しの責める思いと、悪いなという感情。
コース実践中のメモを見返すと
「私は私と一つである兄弟を信頼している」
とありました。
そう思い目を閉じて信頼について思い巡らしていると、胸に暖かさが広がり、安心感が広がりました。
そして気づいたんです。
「できない」「できてない」の意識でいると「大丈夫」のパワーが下がるんです。
「できない」「できてない」を手放すことで「大丈夫」のパワーが増し大きく輝くのだと思えました。
このことに気づくために数日間の様々なことが起きたのだと思えたとき、自然に感謝の気持ちが湧いてきたのです。
「できる」じゃなく「なる」。
それは聖霊の計画です。
自我がなろうと思ってなれるものではなく、そう「なる」ために必要なことがすべて起きて、それによって気付きが起き、いつしか「なって」いるのです。
早くも遅くもできません。聖霊が定めた時にそう「なる」のです。
すべての人が神の子であることを思い出すことが神の意思です。
それは分離が生み出したこの世界を救うという神の計画です。
その計画のために聖霊が一人一人に立てた計画なのです。
私たちはその中で安心していていいのです。
実際には安心からすぐ転げてざわざわし、気づいて安心へ帰る・・・の繰り返しです。
転げにくくはなってくると思いますが、きっと生涯繰り返すように思います。
でもこのことを知っていると安心へ帰りやすくなると思います。
Ruru
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