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奇跡のコース実践記録25

★パート2 真の知覚の獲得への取り組み

5. 肉体とは何でしょうか

レッスン 261
「神」が私の避難所であり安全を保証するものです。

レッスン 262
今日は私にいかなる違いも知覚させないでください。

レッスン 263
私の神聖なヴィジョンはすべてのものを純粋であると見ます。

レッスン 264
私は「神の愛」によって取り囲まれています。

レッスン 265
創造物の優しさが、私に見えるもののすべてです。

レッスン 266
私の神聖な「自己」は、「神の子」であるあなたの中に住んでいます。

レッスン 267
私の心は「神」の安らぎの中で鼓動しています。

レッスン 268
すべてのものをあるがままにしておきましょう。

レッスン 269
私の視力は前方に「キリスト」の顔を見ます。

レッスン 270
今日、私は肉体の目を使いません。


6.「キリスト」とは何でしょうか

レッスン 271
「キリスト」のヴィジョンは、今日私が使うヴィジョンです。

レッスン 272
いったいどのようにして幻想が「神の子」を満足させることができるでしょうか。

レッスン 273
「神」の安らぎの静けさは私のものです。

レッスン 274
今日は愛の日です。私に恐れさせないでください。

レッスン 275
今日、「神」の癒しの「声」がすべてのものを守ります。



ゆるしの実践をしていると、ふと疑問が湧いてくることがあります。
言葉に囚われていた私ならではの疑問。

「ゆるし」って何をゆるすの??
ゆるすって??

これはゆるしの実践を始めてまもなくの頃にはよく出てきました。
昨日は納得したのに、またわからなくなった・・・なんて感じです。

それでもゆるしを続けていると、何か気分が下がることが起きた時、ゆるしの実践ができる!と楽しめるようになりました。

それでもふと

ん?ゆるし?
え?なんかゆるしてる?

と疑問が出てきます。
頭で考え始めてズレていく感じがあって気分が落ちてきます。

あれ?なんか変だ。


ゆるしの実践って何をやってるの?ってことですが、
やっているのはこれです。

・気分が下がったということをそのまま見る。(どういう感情になったかとか深堀はしない。)ただ下がったなと見る。
・その気分が下がった出来事は自分の罪悪感の投影であることを思い出す。
・この反応はもう必要ないと思ったら、聖霊にその罪悪感を取り去ってもらえるよう願う。そして聖霊を信頼して任せる。

「ゆるし」と聞くと、何か不利益を被ったことなどを責めないで受け入れるとか、気にしないとか、そんなイメージがあるのですが、
この実践にはそんなイメージはありません。

これがゆるし?ゆるしって言葉じゃなくていいんじゃない?


これ、自我の誘惑です。
ゆるしの実践を続けさせたくない自我の誘惑です。
ちょっと変なんじゃない?
違うんじゃない?
という思いを湧き出させ、ゆるしの実践から離れさせようとするんです。


これまでずっと自我の見せる世界を信じて生きてきました。
自我の見せる世界とは、この物質世界です。
目に見える世界こそが、触れることができる、確認できるものこそが真実であると信じてきました。
この肉体こそが自分。
この感情こそが自分。
この思考こそが自分。

五感とは肉体が感じるものです。
目、耳、鼻、舌、肌。

五感に変化を感じると瞬時に感情が動き、思考が生まれます。

思考は五感と過去経験、信念によってどんどん動きます。
真っ白で、音も匂いも動きもない、一切変化のない空間では思考は動かないと言います。

この肉体こそが自分だとすると、この肉体以外のものは自分ではないということになります。

分離です。
自分と自分以外の違いを見る。それが分離の世界です。
違いを見るから苦しみが生まれます。

肉体も感情も思考も、分離の世界のものなのです。

自我は分離の世界でしか生きられません。

神と本当の私たちはひとつです。
本当の私たちの家である神の家が天国です。
聖霊も本当の私たちとひとつですが、聖霊は分離の世界に来た私たちが家に還ることができるよう導くため、肉体を持った私たちの中にいてくれているのです。
本当の私たちの家に還る方法は、私たちにはわかりません。
聖霊だけがわかっています。

この分離の世界で生きる上では、
自我に従うか、聖霊に従うか、どちらか一方だけを選択できます。
どちらもちょっとずつなんて選択肢はないのです。

たとえ今自我に従っていても、聖霊は私たちの中にいてそっと見守ってくれています。自我に従う間の経験も大事で必要です。

時が来れば、聖霊に従って天国へ還る道を歩んでいくのです。

聖霊に従うということは、自我の死を意味します。
だから自我は抵抗するわけです。
なんとか自我が作った世界こそが真実だと思わせておきたいのです。

怪我、病気、感情の苦しみ、喜び、楽しみ。
それらを起こして、この肉体こそが真実だと信じさせておきたいのです。

だって痛いし。だって苦しいし。だって辛いし。
誰かに言ってもらって嬉しい!誰かと一緒に楽しめた!



私は肉体、感情、思考だと信じることは、神からの分離を信じさせます。
神は完全で、この肉体、感情、思考は不完全だと見えます。
神から分離したことを信じるので、罪悪感が生じます。
その自分の中の罪悪感が、様々な出来事を見せているのです。


だからネガティブになるような出来事が起きたら、
その基にある罪悪感を認め、聖霊にその罪悪感を取り去ってもらうのです。
罪悪感を取り去ることができるのは聖霊だけだからです。

それがゆるしです。



ある日、7、8年ぶりの友人から連絡が来ました。
どうやら数人での旅行で近くに来ているようでした。
会えないかとの連絡に、こちらの予定を伝えました。
その後連絡が来ない間、私の思考は動きまわりました。

返事の内容にまずいところがあったかな。
このことの報告を聞いたら、あの人はどう思うかな。

気分が落ちてきたことに気づきました。
この思考は違う、と思えました。
相手と私は別人だと思っているから出てくる思考です。
すべての出来事は私が手放すべきことに気づかせるために起きていることと思っても、思考は湧いてきます。

聖霊にお願いしました。

相手にまだまだだと思われたくないと感じています。
成長してないと思われたくないと感じています。
こういう思考が湧いてくる自分をゆるします。
その基にある罪悪感を取り去ってください。

こういう思考が湧くたびにゆるしの実践をしました。
湧くたびに実践しましたが、どうなるだろうとは心配しませんでした。
会うことが必要なら会えるだろうけれど、このゆるしが必要で、実際に会うことが必要ではないなら会わないだろうと思えました。

数日後、調整したけれど時間が取れなかったと連絡がありました。



起こる出来事によって動く感情や思考を見ると、
自分のパターンとして当たり前すぎて見過ごしてきたものが見えます。
そのパターンによってネガティブになる経験はもう必要ないと感じたら、
ゆるしの実践をします。

初めはそれが何になるのかわかりませんでしたが、
やり続けるうちにいちいちネガティブに落ちることが減ってきました。


肉体、感情、思考が自分だと信じていた私をゆるします。
罪悪感を強く強く持っていた私をゆるします。
そして何重にも張り付いた罪悪感を1枚ずつ取り去ってもらうのです。
本当の自分に戻る道、神の家に還る道です。


Ruru



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