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世界が退屈で仕方ない女の子たちへ #第2章

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 海辺の家だ。小さな港町を車でひたすら奥へと入っていく。「さっき、買い物にいったあなたをデパートの一階で、大理石の柱にね、もたれかかって待っていた時……」町の先端に微かに見える岬を目指していくと、嘘のように人気がなくなり、建物は消え、漁師たちの活気も幻のように霞んでいく。そして急に緑が増えだし、左手にきつい潮の香りを伴った岩の深く抉れた断崖が露骨な姿を現す。

「目の前に、カフェがあったのよ。一番奥のアンティーク・ソファに並んで腰掛けていたのは、知的障害者の男と、清潔そうな服で身なりを整えた肥った女のカップルだった」岬まで後もう少しというところ、道路が割れそうになるまでコンクリートが隆起したのを右に行くと、惚けた老人が四六時中虚ろな目で座っている煙草屋がある。マリエはそこで何カートンかの煙草を買うのだった。「何故男が障害者かってわかったかというと、後頭部が深く陥没していて、女が数分間に一度、男の指しゃぶりの後に膨れ上がった唇から垂れ落ちる塊のような涎を赤いチェックのハンカチで、丁寧に拭いてやっていたからなの。男の目は線みたいで、鼻は丸くて、首もすごく太かった。白いソースの乗ったぼそぼそしたパンにソーセージが挟まったのを食べていたわ。カーキ色のズボンに、チェックのたぼついたシャツ、汚れた運動靴といった服装。女は家具のカタログを見ていて、二人の指には同じ指輪がはめられていた」昔の記憶がよみあがってくる……この別荘、そうだ……小さな森に続く煙草屋の裏にある石段を上がっていき、湿度の高いぬめった土を踏みしめると、溜め込まれた生命が靴底の圧力によって発酵していく豊かな匂いがする。しかし森は荒れ放題で、哀しく折れた枝がそこらに散らばり、岩は剥き出して、人の侵入をいちいち拒むかのようだ。度を超えた神聖さを見せつけられて、場違いで低俗なマリエの気分は下降していく。精神は溶け合わない。そこには自然からの断絶の姿勢があるばかりなのだ。だが、そんな彼女を救うかのように白いペンキが剥がれ、黒ずんだ家の玄関の扉が現れる。

「男はそのサンドウィッチをひとくち食べた後、すぐに反対側に向け、女の口に無理矢理押しつけてすすめたわ、自分の涎が汚ないからってそういう配慮なのかしら、一度女は断ったわ、お腹が空いていないから、とかなんとか言って。それでも男があまりにすすめるので、パンを受け取って男と方向から齧った、そして女は歯を見せて幸せそうに笑うのよ……わたしはそれを寒気まで感じながら、けれどずっと見ていた、目を逸らせなかったの。でも本当に理解できなかったのよ、女のことを。二人の間に構築された得体の知れないものを。わたしは動物園の檻の中を観るようにじろじろと不躾な眼差しで見ていた」家の中に入ると、真正面、そして左右にある窓が大きく開け放されて、岩を打つ波の音、そして目が痛くなる日差しが五感を絶え間なく刺激する。光で透けた花柄のカーテンは風を含み、膨れ上がり、また緩やかに萎んでいく。全ては動きに満ちている。マリエは窓辺に置かれたデッキ・チェアに座ろうかとも一瞬思うのだけれど、やはり何もかも、あらゆる連続、習慣、無機質なものにも存在する鼓動に身を晒したくなくてさっさと地下室に降りてしまうのだった……追憶。「つきあうというのは甘い剥奪ね、二人で新しく構築した子宮に入り直して、ずるりとした薄黄色の体液を零し続ける互いの能力を啄み合って、楽しく白痴になった後ようやくできあがったのは、どうにもならない価値のくだらない模様がついた陳腐な織物よ。そうして別れても相手の痕跡は身体の中に刻まれて、もう元の自分では生きていかれなくなる、何もかもが変わってしまう。女はじっと見ているわたしに気づいた、わたしは身体をすくませる、女は目を見開いて堂々と私を見た、彼らを新奇なものとして眺めるわたしを裁く正しい目、真理を知っている者の目で。けれど彼らの日常を否定しなければ、誰とも関係を築けないわたしは今すぐ首に刃物を立てて絶命しなくちゃなんないわ。彼らの愛の光景は――互いの強迫的で病的な心が完璧にメランコリックな調和をもたらしたそれは――黒い墨汁の池に垂らされた一滴の乳白液のように、今すぐ忘却の彼方に追いやりたいのに、脳を占拠し、序々に圧力を放つ確固たる波紋と共に広がってわたしを殺していくんだわ………」

 エリはマリエの首をそっと絞め始める。キキィ、と何も通らない道で、緩やかに車が停止する。喉を通る空気の量は制限される。ぎり、ぎり、と窮屈な音と一緒にベルトは首の肉に食い込んでいく。絶妙な力加減だ。手足はこの非日常に恐れをなして急いで痺れの波を回していく。マリエは、といえば他人事のように呑気に薄ピンクの革のベルトごしに彼女の愛しい熱意を傍観していた。今、とても温かだ。何だって人に相手されている。わたしなんかの首を絞めてくれる。小刻みに唇は震え始め、漏れる音はそのまま崩れて誰の名前も呼ぶこともできやしなかった。後頭部がぼうっと熱く重くなって、選択肢が一つずつ減っていく、そんな状況でマリエはようやく自分の重みを感じる。逆にこうしなければ感じられない。なされている行為は、わたしの幸福のための明瞭な死の努力。エリのこめかみには血管が浮きあがり、マリエは半目で、揺らめく彼女の腰までのあせた黒髪を眺める。ぬるい息を吐く皮の少し捲れた紫がかった唇。彼女も確実に生きているのだ。わたしだけの華奢な神様。

「まだそんな馬鹿なこと言ってるの」とエリは泣きだしてしまいそうになりながら言った。

「もうわたしがいるのに」

 少しずつ白い靄がかかり始めた視界の隅に消えそうなエリの頭をそっと撫でた。毛は絹のように柔らかい。掌の感覚の次は、尻から背中まで這い登ってくる悪寒。神経は過敏と怠惰を繰り返しながら終末へとわたしを連れていく。脳内にはぷつぷつとした光の粒、原子の玉が等間隔に並びはじめ、それらが数学的な図形を構成しだしたのがわかる。規則正しいリズムでぶつかって、飛ぶ、運動、狭間から漏れ出す快楽、わたしが舌を出せば彼女は吸い付く。苦しさは限界まで達する。だが、軟体動物の吸盤のように頑張ろうとしてくれるのはありがたい。何だって人がわたしなんかを相手にしてくれている。

 マリエ、さ、ご飯にしましょう。エリは手を離して、耳元で優しく言った。そうね。そのほうがいいわ。


©Yuki Nakai

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