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当事者たりえなかった者たちのwishful thinkingは贖罪にならない

私はそれほど普段から映画を見ないので、映画批評をする資格もなく、これまで映画について書くときは、作品単品で言える感想以上のことは書いていない。

この夏、「シン・ゴジラ」と「君の名は。」という2本の邦画がどえらいヒットということらしいのだが、どっちも私にとって興味の範疇外の分野にもかかわらず、いちおう観てみたわけです。だから昔や最近のゴジラ映画も全然知らないし、ジブリ以外のアニメもほとんど観たことがない。

その上、あんまり感動しない人間だってのも、自覚している。例えば、SNSで「感動」系の話が流れてきても、そのままRTしたことがない。例外的には動物の話はあるけど。犬猫さまは人間の思惑に従って行動しているわけではないので、感動話はそれが人間側の勝手な投影だと割引しつつ、ワンニャンの方がよっぽど人間より人間ができているではないか、健気ではないか、というエピソードはRTしているかもしれないけどね。

とにかく「どっかの誰かが親切なことをした」「誰かのこんな言葉に感動した」みたいなエピソードにぶち当たるととにかく胡散臭いとしか思えないヒネクレ者なのだ。感動も少ないので、その反面、パニックもあまり起こさない。周りで実際に大災害や事件が起こると、肝が座るタイプらしい。

だから、この夏の映画2本を見て「感動した!」と感じている人にとっては「ナニつまんねーこと言いやがるんだ、このクソババア」みたいな映画評、というより時評っぽいものになりそうですね。ネタバレもあるし「不快な気分になる可能性があります」みたいな断り書きのことを英語ではtrigger warningというのだけれど、これについても最近思うところがあり、それは別の機会に。

いつも通り、前置きなげーなw

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「シン・ゴジラ」と「君の名は。」が大ヒットしたようである。このところ、クールジャパンだなんだという割には、国内のエンタメ産業はあまり明るい話は多くないので、そのこと自体は喜ばしい。素直に。

ジャンルもフォーマットも違うこの2つの映画だが、そこに一つの共通項に気づいた途端、こんなこと感じているのは私ひとりなのだろうかと思ったので、披露してみる。

つまり両作品とも、現実に対し「こう対処できていたらいいのにな」という願望と、「失われてしまった人たちへの償い」を勝手に映像にしてる気がしたのである。その厳しい現実とはもちろん、3-11の大地震と津波、そして福島第一発電所のメルトダウンのこと。

ゴジラが原発や核兵器の恐怖を具現化しているのはよく指摘されていることである。

実際のところは、全てにおいて不慣れな対応しかできなかった民主党幹部と、自民党時代から好き勝手やってきた原子力ムラの人たちのせいで国民は原発事故に関し完全に「蚊帳の外」に置かれてしまった。政治責任の所在や、情報伝達のプロセスや、正確な放射能量の情報など、すべてが不透明で、今も多くの部分が曖昧にされている。

それを「シン・ゴジラ」では、いろんな行政部署のいろんなキャラの人たちが、あちこちで摩擦したり、対立したり、協力しながら、夜遅くまで、あるいは体臭が臭うまで仕事をしていて、それが虚しいサービス残業じゃなくて、「日本を救う」立派なお仕事になっている。

その辺の実際の職場だったら、仲間はずれにされてハブられてそうな、ブっ飛んだキャラの人が、有能でそれなりにヒーローになれてしまう虚構の世界だ。若い女性のオフィスワーカーが、キャピキャピとかわゆらしく装うことではなく、すっぴんで髪に寝癖がついてても、愛されるオガシラちゃんとして活躍できる虚構の世界。そりゃウケるでしょうよ。メタボ体型で縁の下の力もちポジションのイズミちゃんが、時には人事のトップにいるイケメンエリートくんたちよりも頼りになるヤツとしてヒーローになれる虚構の世界。

もう、痛いほど「日本にこういう職場があったらいいのにな〜」「みんなが理路整然と自分の意見を言えていいな〜」「会議で実際に決断が下されてサクサクと実行に移せていいな〜」ってなことのオンパレード。そりゃこの映画が国内限定で支持される割には、海外の人には「?」な反応でしょうよ。

その「当事者たりえなかった者たちの願望」は「君の名は。」にも顕著だ。

ネタバレで申し訳ないが、体の入れ替わりが説明されるどんでん返しで、東京でのうのうと暮らしている瀧ちゃんは、ニュースで見た遠い村の壊滅に関する記事を読みあさって、脳内で隕石が落ちることを知っていたら自分が助けてあげられただろうという虚構が現実となる。

それはそのまま、3月11日にあれだけの大地震と津波が来ることを知っていたら、助けてあげられただろう三陸の人たちに対する我々の気持ちではないのか。

これが私にとって覚えのある感覚だったのは、同じ「当事者たりえなかった者」の気持ちを2001年のニューヨークで9-11同時テロ事件の時に味わったからだ。

奇しくも数ブロック先で、秋晴れの空をバックに黒煙が吹き出るワールドトレードセンターのビルを肉眼で見ていたのに、ビルが崩れ去った後の一面の煤の中を歩いていたのに、燃え尽きたビルの瓦礫から漂うあの異臭を嗅いでいたのに、私は9-11ウィドウと呼ばれる未亡人どころか、直接の知り合いが、あの日命を奪われた3000人の中にいたわけでもなかった。

自宅そばのユニオンスクエア以南が全面通行禁止になり、まさに、14丁目のストリートから先は立ち入ることを赦されない「部外者」としてしか、9-11を語ってこられなかった。

そのことを考えるたびに思い出す小説がある。今回も、映画を見終わった時に再読する気になった、イアン・マキューアンの『贖罪』。姉と、自分がちょっと憧れていた使用人の息子が相思相愛なのを知って、嫉妬からレイプの罪を彼に押し付けて仲を裂いた少女が、やがて著名な小説家となり、この恋人たちの末路を物語にする。救いのない現実と、そうであったらいいのに、という残された者の思い。

この本の構成に関してはいろいろな人がわかりやすい書評を残しているので、読んでみてほしい。

あるいはこの本を映画化した「つぐない」も美しい仕上がりになっているのでそちらもオススメ。キーラ・ナイトリーの貧乳ぶりが神々しく、私がベネディクト・カンバーバッチさまを初めて認識した映画w

日本のヒット映画では、ゴジラが見事やっつけられ、瀧と三葉が出会えているラストシーンこそが当事者たりえなかった者の懺悔であり、wishful thinking(なんて訳したらしっくりくるかな。希望的観測、願望的思考、夢想、という訳語もあるけれど、「甘い考え」っていうのもある)なのだ。

私はそんな贖罪は結局気休めにしかならないと思う。だって、私はこうやって周りで悲劇が起こってものうのうと生きているんだもの。私がどう望んだって現実は変わらないもの。今も福島第一はヤバい状態が続いていて、津波にのまれた人は帰ってこなくて、この国に本当にゴジラや隕石が来たらみんな死ぬんですよ。

やっぱ感動のないつまんない人間ですかね?

でもだからこそ、目の前の現実をしっかり見据えて、自分でできる範囲で少しでも良くしていくしかないと思うわけですが。

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