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半世紀ぶりのアラバマのお話はな〜んにも変わってなくて愕然とする

アメリカ人なら小学校か中学校で必ずといっていいほど、課題図書として読む本のひとつがハーパー・リーの『アラバマ物語』(原題はTo Kill a Mockingbird)だ。レイプの濡れぎぬを着せられた黒人青年を、映画ではグレゴリー・ペックが演じる熱血弁護士、アティカス・フィンチが救うというストーリーで、女の子ならだいたいお転婆な娘の「スカウト」と自分を重ね合わせ、アティカスに理想の父親像を見て、正義とはなにか、というエッセイを書く宿題をやらされる。

ハーパー・リーの著作は後にも先にもこれっきりで、その後はどちらかというとトルーマン・カポーティの幼なじみとして、しばしば彼の著作に登場し、2005~6年にカポーティの映画が2本もつくられた時は女優のキャサリン・キーナー(亡きフィリップ・シーモア・ホフマンがカポーティ)とサンドラ・ブロック(こっちはトビー・ジョーンズが出たInfamous、もしかして日本未公開?)がそれぞれ“ネル”(ハーパー・リー)として登場していた。


刷り上がったばかりの『冷血』にサインする在りし日のトルーマン・カポーティとハーパー・リー

刊行日が迫る中、アマゾンで予約だけでベストセラーになったとか、初版の前に既に何万部も増刷になったとか、刊行当日の売上が「ハリポタ」以来の部数になったとか、喧しく、つい先日、100万部に達したようだ。刷り部数はその3倍ぐらい?

だが、読んでみれば、なぜ封印されてきたのかがわかるような出来だった。アメリカ人にとってthe Old South「南部」とは、特別な郷愁をもって語られる「旧き善き」アメリカの代名詞だ。Go Set a Watchmanと題されたリーの新作でも、冒頭からの描写はまさに、鉄道列車がふるさとの駅に到着するまで窓から見える昔懐かしい風景に主人公ジン=ルイーズが思いを馳せている。彼女こそがかつてのスカウトで、大学卒業後ニューヨークに上京し、大人のレディーとなって生まれ育ったメイコムという町に帰ってくるのである。

都会ですっかりリベラルな価値観に影響され、気づくと南部の田舎をバカにする友人たちに弁明するのに、いざ親戚や幼なじみたちと話をしてみると昔ながらの古くさい価値観に違和感を感じている自分がいる。映画「Sweet Home Alabama(邦題:『メラニーが行く)』」や「The Help(邦題:『ヘルプ〜心がつなぐストーリー)』」でも主人公の女性が同じ文化のギャップに悩み、だからといって親戚家族との絆を断ち切ることもできず、自分はなんだったの?と自問することになるのはみんな共通。

それはアメリカ生活が長く、「ジャパンって変な国ね」とニューヨークの友人に言われると「日本文化」を持ちだして説明する一方で、日本に帰ってくるといつも「アメリカでは〜」と言い出して出羽の守になってしまう自分とかぶる。

だが、土地柄の違いなんてことよりも、大人になったスカウトにとって衝撃だったのは、昔は黒人差別を許さない、正義を貫くヒーローと信じていた父アティカスが、地元のクー・クラックス・クランまがいの団体に入って活動している、と聞かされたことだ。そして残念ながら、ここからはどんな設定で誰と会話しようとも、スカウトのセリフが説教じみた蒼い理想論にしか聞こえなくなってしまうのである。

この本が今頃になって出されることになった経緯をあちこちのメディアから拾ってみると、実はGo Set a Watchmanは、『アラバマ物語』の叩き台となったボツ原稿だったようなのだ。リーの原稿を読んだ当時の編集者、テイ・ホホフが、親身になって作家としての彼女を導いたからこそ一世一代の本が書けたということだろう。その辺はニューズウィーク誌の渡辺由佳里さんのコラムで詳しく書いてあるのでおすすめ。

そしてあらためて『アラバマ物語』のアティカス・フィンチの言動を見なおしてみると、実は彼のキャラクターに何か劇的な変化が起こったわけではないことがわかる。彼は元からsegregationist(人種隔離主義者)だったのだ。つまり、昔も今も「黒人は“人”として未熟なのだから、冤罪で困っていたら、こちらが守ってやらなければならない。それ以外の時は、別々に暮らしている方がお互いにとっていいのだ」という考え方によって一貫しており、偏屈じいさんになって急に白人至上主義に染まったのではなさそうなのだ。

そういえば「アラバマ物語」に、レイプの被告として引っ張りだされてくるトム・ロビンソンも、その家族も、彼の弁護をする発言は許されず、自分の考えを口にするのは白人ばっかりだったよな、と思い出してみる。『アラバマ物語』に描かれた50年代の黒人差別(セグレゲーション政策、とお茶を濁した言葉で「棲み分け」をいくら唱えても白人側になんの規制がされなかったことでもそれは明白だ)は今なお色濃く残っているのがアメリカという国だ。

ファーガソン、バルティモア、ニューヨーク、あちこちの町で白人警官が丸腰の黒人男性を銃殺しても、起訴すらされない、というのが2015年の現実なのだ。キング牧師やマルコムXが命をかけて訴えた「人権の平等」という思想だったが、白人(男性)は公民権運動のことを理解したわけでも、承知したわけでもなかったのだ。

先月も、サウスカロライナ州でconfederate flag(南部同盟旗)を誇らしげに持って自撮り写真に収まっていた白人青年が黒人教会で9人を射殺する陰惨な事件があったばかりだ。南部同盟旗?と思う人は映画『風とともに去りぬ』の名シーンを思い浮かべるといいだろう。アトランタ侵攻の際、スカーレット・オハラが見渡すかぎり横たわった半死の南部兵の間をぬって歩くシーンではためいている、あの旗だ。

折しも日本で鴻巣友季子さんと荒このみさんによる『風とともに去りぬ』の新訳が出て話題となっているが、アメリカ人がみな、この本を「名作」と讃えているわけではないことを、言わないでいるわけにもいくまい。南部軍が戦っていたのは奴隷制をキープするため、だったのだから。

この事件をきっかけに、サウスカロライナ州議会の議事堂前の旗が降ろされることになった。黒人教会で殺された被害者の一人はサウスカロライナのクレメンタ・ピンクニー議員だったが、彼の職場である議事堂だ。人を殺戮に駆り立てる人種差別の象徴がそこに翻っていたのだ。先週も、南部同盟軍旗にこだわるKKKと、ブラックパンサー党が首都ワシントンで同時期に行われたデモで小競り合いになったところだ。いつまで南北戦争を繰り返す気なんだろうか、この国は、と呆れ返るばかりだ。

少しばかり残念な気持ちでGo Set a Watchmanを読み終えたが、次は今、刊行ホヤホヤで話題になっているタナハシ・コーツのBetween the World and Meを読もうと思っている。彼のコラムはビレッジボイス紙に書いていた時に少し読んだことがあるぐらい。この新刊では「アメリカで黒人男性として生きるのはどういうことか」を綴って注目を集めている。たぶん心がチクチクして居心地が悪いだろうけれど、読む。


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