何も考えずにマナーを守ってばかりいたら不寛容で息苦しい社会になっちゃうよ?
先日、ちょっと機嫌が悪かったところに脊髄反応でやっちまったツイートが1200RT超えててちょっとビックリしている。私が頭の硬い中年男性を「うるせー、老害ジジイ」と罵倒するのは毎度のことなのだが、なぜそんなに皆さん、食いつきがよかったんでしょうか?
まぁ確かに「ここはアメリカじゃないしー」というリプにも一理あるかもしれないが、そもそも、映画という娯楽そのものが、輸入されてきたものなので、その時に「ポップコーンを食べながら楽しむ」という習慣もセットで付いてきたんでしょうな。ということでまず「なぜポップコーンなのか」問題から片付けちまいましょう。
アメリカでの映画の歴史をたどると(こんなもん勉強したところで絶対に将来使わないよー、とずっと思ってきた「メディアとしてのアメリカ映画の歴史」の授業が今になって役に立つとはww。よく暗がりで寝てたけど)、もともと無声映画が作られていた黎明期は、映画というのもお芝居の舞台や生演奏の音楽会同様に、レッドカーペットが敷き詰められた立派な劇場で富裕層が観る娯楽だったそうな。(今も時々、アメリカの田舎町にもやけに立派な映画館が残っているのはそのため)。アメリカで最初に映画に音が付いたのが1927年で(はっ!年号まで覚えている私スゴイw)、字幕を読まなくてもいいってことは、読み書きのできない文盲の人や子どもでも楽しめるようになったということなんですねー。ちなみに「トーキー第1号」映画はThe Jazz Singerという作品で、最近日本でもアイドルの娘たちがやらかしちゃった「顔の黒塗り」も出てくるのでフルバージョンを探してみると面白いかと思います。
大恐慌時代を迎えるころには、映画は誰でも気軽に見られる大衆娯楽に(ほら、ニッケルオデオンって言葉があるでしょ。最初はたったの5¢だったてこと)。映画にポップコーン、にはこんな理由があったのです。
① 原価がむちゃくちゃ安い。
アメリカといえば、見渡す限りいくらでもトウモロコシ畑がある(昔のだと『オズの魔法つかい』や『猿の惑星』や『北北西に進路を取れ』から、ロマンチックなところでは『フィールド・オブ・ドリームス』、ホラー系だと『Signs』『チルドレン・オブ・ザ・コーン』などを参照)ので、ポップコーンの素である「kernel カーネル」(ちなみにフライドチキンのサンダースさんの称号Colonelと同じ発音なのに綴りがじぇんじぇん違う不思議な英単語)なんででっかいズタ袋で1000円くらいで仕入れられ、何年も保存が効いたから。
アメリカといったら、石油の代替エネルギーになるものって何かないかなぁ?って考え出したら即、答えが「とうもろこしで作ったエタノール」って国なんすよ? で、燃料には不向きだとわかったら今度はそのシロップ(HFCS)をありとあらゆる食料品に入れ出して、国民みんなデブってる国なんですよ?
② 屋台で簡単に作れる。
映画が人気!と聞いて商売っ気のある人たちが最初は劇場の外で売っていたけど、持ち込み禁止にして映画館で作っちまえばもっと儲かる!ということで映画館の方が一枚上手だった、と。
③ お砂糖が要らない。
第2次世界戦後はアメリカも砂糖が不足しがちで、映画館でソーダやキャンディーを仕入れるのが大変だった、ということもあるようです。その頃には、アメリカで消費されるポップコーンのうち、半分が映画を観ながら、になったとか。
他にも、食べるときにあまりポリポリと大きい音がしない、軽いので投げてもスクリーンに届かないし、人に当たってもケガしない、掃除機ですっと吸い込めて掃除がラク、というのもあるかと。
でも50年代以降はアメリカでもテレビが流行りだし、映画館から庶民の足が遠のくようになったのにつれてポップコーンの消費量も減速。70年代に「ジフィー・ポップ」という商品名で、使い捨ての蓋つきアルミフライパンにバターとカーネルがセットになった家庭用ポップコーンが人気になって(自分でつくれるおやつ、ってこれぐらいだったなぁ)、家でも映画をテレビで観ながらポップコーン、という習慣が再び生まれ、今や家庭でポンポンつくれるポップコーンマシーンや、紙袋をレンジでチンするだけ、というスタイルに。
そんなわけで、アメリカ人の頭の中では、「ポップコーンバターの香り=映画館」になっているんですよ。ちなみに、映画館で買うソーダや駄菓子ってやたら高い値段が付けられていると感じるわけですが、特に原価が安いポップコーンで、スナック類の売り上げの80%以上がポップコーン。映画代を含めた映画館の儲けのうち、約半分はポップコーンの売り上げなんだとか。
ポップコーンのお話はこれくらいにしておいて、この残念な男性会社員(55)の言い分なんですが、そもそも映画館でタバコなんて消防法でアウトなはずw 「受動ポップコーン」なる言葉を作って悦に入っているっぽいのもオヤジ臭。
たかが映画代払ったからって、この人は、なにもかも自分の思い通りに映画を見る権利を買ったわけではない。映画館という、公衆が集まる場に一時的に自分も立ち入る権利を得ただけだ。自分が映画を楽しむには、人が映画を楽しむ権利を否定してはならない。その人だって同じ料金を払って映画を観ているのだから。
頭の固いオッサン、といつも私が自己チューな人々を罵倒するのは、人間、empathyがなくなったら終わりだと感じるから。「エンパシー」というのは日本語でいうところの「思いやり」とも少しニュアンスが違う。思いやりはあくまでも自分が相手にとって良かれと「自分が」思うことをする行為で、下手するとおせっかいや余計なお世話になる。「エンパシー」は、自分の価値観とは違う他者を受け止め、相手の事情や、バックグランドや、考え方を「想像する力」なのだ。
ポップコーンをぼりぼり食べていた人は、もしかしたらいつもその映画館で、その席で、映画を楽しんでいるのかもしれない。だとしたら、いきなり現れた人が迷惑に思っても、そんなの知らねーよ、って話にならない? あるいは、ぼりぼり音がしちゃったのは、もしかしたら合わない入れ歯を使っているのかもしれないし、あるいは耳が遠くて音に気づいてないとか。若者だったら、親が「口を閉じてモグモグしなさい」という躾さえ受けられなかったと思えば、これからもいろいろな場面で苦労するだろうし、ちょっと可哀想かも。
あるいは、本当に心の底から映画に夢中になって、自分が音を出してポップコーンを食べているのにも気づかないとか…それはそれで、そんだけ集中して楽しめるなんて、ちょっと羨ましいことではない? まぁ、そこまでいろいろ詮索することはないんですが、そう思うことで「世の中、いろいろな人がいるよなぁ。私も知らないうちに人に嫌がられていること、してるだろうから、おあいこ」って思うと自分がラクになれるよ?
他人が本当に危険だったり、周りの誰かに実害のある迷惑行為を働いているのならば、おっさん、お前が勇気を出して言ってみたらどうなのよ?とも思う。朝日新聞に投稿するなんて、「ジャイアンがぶったぁ」って泣きながら小学生が先生に言いつけるようなレベルじゃん。
しかもこういう場合、いきなり偉そうに怒鳴りつけるというような、50代男性にありがちな言い方じゃなくてね。私も五十路の声を聞く立派なオバサンだけど、若い娘っこにはない「愛嬌」で知らない人にやんわりお願いする、という技が使えるようになってきた。
年下の人だと「Would you be an angel and (do ~) for me?なんて言葉も吐けるようになってきた。この「天使になって」は「よろしかったら」ぐらいの語感で、ニッコリ笑ってこれを言うと、ほとんど断られることなく、スーパーのいちばん上の棚にあるものを取ってもらったり、席を替わってもらったりできるw 頼む前に何かしてもらったら「Oh, thank you. You're an angel.」と笑顔で後付けもできる。
私はチビなので、昔から映画館やなんかの会場だと、人の頭の後ろばっかりが視界に入って、他の人ほどイベントを楽しめていないのを感じることもある。でも、だからといって、お前も背中かがめろとか、私の視界からどけとか、思わないよ? 背が高い人はコンサートではいいかもしれないけど、日頃から鴨居に頭ぶつけてコブだらけかもしれないし。映画館でみんな同じ高さにしろなんてこといったら、入場者の視線の高さが一定になるように劇場側が一人一人の座高に椅子の高さを調節しない限りムリじゃん? 「みんな違ってみんないい」なんて臭いことは言わないけど、「みんな違ってしょーがない」ってのはあるw
そんなことより、私が懸念するのは、なんでもかんでも「ルールだから」「マナーだから」と人の細かい行動をお互い縛りあう社会が行き着く先は、息苦しく、誰にも優しくない、地獄のような閉塞感しか待っていないと思うからだ。そして日本の社会は既にそういう意味ではかなり地獄チック。映画館でなくたって、妊婦や、シングルマザーや、身体障害者や、病気の人や、要するに弱者に冷たい。
「人に迷惑をかけるな」って子どもを躾けるのがそもそも間違っていると思うんだよねぇ。人はお互い迷惑をかけあうためにコミュニティーを作って暮らしてるんでねーの? 子どもがかける迷惑を許せるのが大人ってもんじゃねーの? それに、いくらルールやらマナーやら、徹底させようとしたところで、もともと面の皮の厚い人や、お行儀の悪い人ってのはそんなもん、守りゃしないんだよ。
一人一人が何の文句もないようにルールを作っていったら、映画館なんて意味ないでしょ? アメリカだとどんなコミュニティーにもお行儀が悪い人もいる、ってのが前提だから、神経質な人だとやっていけないところもあるけど、その分、スクリーンに向かって「OMG! 危ない!うしろ!きゃ〜!」と叫びながらスプラッター映画を観るとか、アナ雪でみんなでレリゴー歌いだすとか、痛めつけられていた主人公が敵を倒す場面で「いいぞ!もっとやれぇ」って、それってよく考えたら殺人じゃん、みたいなことでも応援しちゃう。ポップコーン食べてる人も食べてない人もみんなで映画を楽しむ「一体感」っていうの?日本で感じたことないや。コンサートでも踊ったり、拍手したり、みんなでやるのは同調圧力でムリしてる人もいるだろうって感じ。
それこそ私が大学で映画の歴史をおべんきょしてた時代から仲良くて、よく映画やメッツの試合をみにいってたマカベニ(あだ名)って友だちがいるんだけど、コイツが「黙らない」ヤツでww。今から思うとぜったいADHDだよね、オマエって感じなんだけど、つまんない映画だと画面にツッコミ始めて止まらないの。これが可笑しくてさ。こっちは笑いすぎてお腹よじれそうで、ポップコーンの皮鼻から吹きそうになりながらもジャパニーズマインドで「怒られるよー」って心配するんだけど、だれも文句言ってこない。
それどころか映画が終わって帰るときに知らない人から「いや〜、おかげでエンジョイしちゃったよ」って褒めれれててw。ちなみに思い出したんだけどその時の映画は、スコセッシ監督がビクトリア〜ンな昔のアメリカ上流社会を描いたウォートン原作「The Age of Innocence/汚れなき情事」だった。スコセッシ監督と聞いて、けっこう男性客も多かったけど、オースティンみたいなメロドラマが3時間という罰ゲーム。
両思いの二人に気づき、婚約者のメイがいじわるで妊娠を匂わせる場面で、マカベニのやつ、「シンプソンズ」のホーマー声で「Doh!」とやって、劇場中の笑いをとりやがったw もしかしたらそこにはビクトリア時代おたくでウォートンファンで、マカベニをうるさい迷惑野郎と思っていた人もいたかもしれないが、Doh!で笑っていたと信じたいw 最近フェースブックで見る限り、子供がポコポコ生まれて大変そうだけど、マカベニか、受動ポップコーンおじさんか、どっちか父親選べと言われたら、ごめんなさい、マカベニですw
なんかポップコーン食べたくなったな。この週末は映画でも観にいくか。
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