あいちトリエンナーレ騒ぎでほとんど語られないこと

あいちトリエンナーレ再開

 慰安婦少女像や昭和帝写真焼却の展示で、一旦中止にまで追い込まれた「あいちトリエンナーレ」の「表現の不自由展」だが、条件付きで再び展示再開された。この表現の不自由展については、元々、表現の自由に絡み議論を巻き起こしそうな(巻き起こした)展示物を敢えて展示することで、表現の自由についてもう一度考えようという意図があったようだ。こうした騒ぎになることについては、ある意味確信犯(本来は誤用だが)だったとも言える。
 一方で、国(文化庁)が一度認めた補助金を、「テロの恐れがある展示物についての報告がなかった」などを理由として全額不交付にして、「行政の検閲に当たる」と言った批判を受けたり(実際問題、行政訴訟になった場合に、普通に敗訴する可能性は十分にある)、事後撤回の是非について一悶着あったり、再開に当たって河村たかし名古屋市長が抗議の座り込みを一時するなど、収まる気配は今の所ない。

 この間、少女像や昭和帝写真の焼却などに抗議する側から、「あいちトリエンナーレを毎年楽しみにしてたのにもう行きません」などの発言も相次いだ。しかし、トリエンナーレとは「3年に一度開かれる国際美術展覧会」の意味であり、毎年行ってたと主張している人物は一体何を見に行っていたのかという笑い話も浮かび上がるなど、色々と興味深い(失礼w)展開もあった。
 念の為に言っておくと、筆者はトリエンナーレなる言葉を今回初めて知り、「3年に一度開かれる国際美術展覧会」だとやっと認識した次第(但し、「トリ」と言う接頭辞が3の意味であることは知っていたが)だ。つまり、「人の振り見て我が振り直せ」の立場なので、他人事として無知を嗤うつもりはない。因みに、ビエンナーレとは「2年に一度開かれる国際美術展覧会」のことらしい。ビとは「バイ」と同じ接頭辞でこれまた2の意味だそうだ。これまた勉強になった。

表現の自由の制限と展示物の意味

 さて、今回の件で取り沙汰されている、日本国憲法第21条で規定されている「表現の自由」については、公共の福祉によって必要最小限の制限がされる(リンク先中段辺りの説明参照していただきたい)ことは一般的に知られている。下世話な話だがAVやエロ本で性器が隠されるのは、まさにこの制限の発動(わいせつ物頒布等の罪に問われる)であるし、名誉毀損や個人情報保護に反するプライバシー侵害も制限理由となり得る。

 一方、表現の自由は「民主主義社会の本質的基礎部分を成す権利」であるとして、出来る限り制限を受けないべきだという主張が法学者やいわゆる「リベラル・左派」側からされているのも事実である。
 これに対しては、「そうであるならば、いわゆるヘイトスピーチなども、表現の自由の一環として認められて然るべきだ」という側からのカウンターも同時にされていることも指摘しておく必要があるだろう。

 また「公的な支出(つまり税金からの支出)が、大きく物議を醸すような催事にされるのはおかしい」という議論も、今回撤回された文化庁からの交付金を巡ってされている(これについては、上記リンクにも論じられている)。これについては、保守・革新、右翼・左翼の同意反対するような催事では、一方が賛同、もう一方が反対に回ることなど、攻守交代が頻繁にされるケースであり、我々(筆者は中道左派側だが)も色々と考えさせられるテーマと言える。
 今回の慰安婦像や昭和帝焼却映像も、右翼・保守派は「日本を愛する人達への冒涜」であると捉え、表現の自由を制限されて当然であり、税金の支出(交付金)など以ての外だと考える一方、リベラル・左派側からは「表現の自由の一環」だとして展示継続と交付金の支出の継続を主張していた。これはヘイトスピーチなどでは、立場が真逆になるのは既に触れた通りだ。このヘイトスピーチ規制については、細かい議論があるのだが、紙幅の関係もあり、今回は言及しない。

 こうなってくると、論じるに当たり、まず今回問題となった展示物について一応見ておくことが必要になる。
 展示されていた慰安婦の少女像については、作者の制作経緯から、朝鮮半島における慰安婦の犠牲者としての側面が強調されていることは事実だろう。事実関係だけを言えば、少なくとも当時の朝鮮半島において、「日本軍」が直接的に従軍慰安婦を強制連行・徴発した形跡はない。これはあくまで朝鮮半島における話であって、従軍慰安婦一般に全面適用されるわけではないが、少なくとも韓国側の抗議にかなり誤解が含まれていることは確かだ。
 かと言って、当時の朝鮮半島における売春婦一般が、かなり女性の人権を無視した形で行われていた(これは当然日本でもそうであって、世界恐慌や飢饉で東北の「娘の身売り」が頻発し、それに胸を痛めた東北出身将校が居たことが226事件の発生要因の1つとされている)のも、事実上の人身売買だったことから事実である。昨今の金を稼ぎたい自由意思の風俗嬢とは趣が異なる(現在ですら、この手の話で女性の人権侵害が行われていることを否定するつもりはないが)ことは事実だし、少なくとも当時の人身売買的な管理売春が合法だったとしても、当時の感覚ですら、およそまともな人間からは、真っ当なモノとして認識されていたことは、日本でもなかったことだけは確かである。
 更に余談となるが、この慰安婦少女像の韓国人作者は、ベトナム戦争における韓国軍の暴虐について批判した作品も制作していることを付記しておく

 一方、昭和帝の写真が焼却される映像作品についてだが、これはなかなか複雑な背景がある。これについては、リンク先の説明がわかりやすい(但し、その理解・見解は筆者とは全く別物であることに注意)ので、よく知らない方はそちらを参照していただきたい。因みに、昭和帝の焼却映像で焼却されたのは、あくまで昭和帝が写った美術作品であり、昭和帝のいわゆる「御真影」ではないことは明記しておく。

表現の自由の制限と取り残された内心の自由との関係

 さて、いずれの作品も左右両派にとって物議を醸す作品であることは、よく理解出来たと思うが、ここで両方の作品の抱える問題が実は似て非なる側面があるとご理解いただけただろうか? 
 無論両方ともいわゆる「反日」的要素を右翼・保守派が感じやすい作品であることは共通しているが、少女像そのものは、その制作意図やそれを利用している人間は別として、それだけを見れば、単なる少女が座っている像であることは明確である。そこには猥褻姓も歴史性もない。背景を知って初めて意味が出て来るという程度である。
 一方の昭和帝焼却映像作品については、その制作意図は別にして、昭和帝をこよなく愛する者からすれば、まさに見たまま許せない作品であろう。

 注意すべきは、表現の自由が制限される場合というのは、実はその作品や発言などが「外形的にどう思われているか」が議論の本質であるということだ。
 例えば、男性器と女性器をモロに写した作品を「制作意図として男女平等性を表現した」として展示しても、当然ながら表現の自由の制限たる猥褻物陳列罪に問われる可能性は高い。そこには「高邁な制作意図」などほとんど考慮されていないのが現実だ。判断材料はほぼ「外からどう見えるか」という単なる外形でしかない。さすがにダビデ像などの世界的に有名で古くからある作品については、猥褻性が問われることはないが、現代アートであれば規制を食らう可能性は極端に高くなる。

 その視点から両作品を単に俯瞰してみれば、少女像は猥褻性も攻撃性もないただの少女の坐像であり、焼却映像作品は昭和帝の名誉を毀損しているように見えても仕方ない(但し、歴史的故人であり公人であることからして、現実問題としては不法行為としての名誉毀損や刑事事件としての名誉毀損や侮辱罪【当然ながら戦前の不敬罪は既に無い】に問われることはまずない)。
 意図や背景抜きに論じられる表現の自由の規制の現実からは、慰安婦少女像は何の問題もなく、昭和帝写真焼却作品は、その作者の意図は無関係に制限されても、そこだけ見ればおかしくはない(現実に遺族たる皇族がこれを不服として訴えることはないので、忖度以外の制限はされないだろうが、ある意味皇族には気の毒な部分でもある)のである。

 そしてもう1つとても重要なことは、憲法第19条における「思想・良心の自由」は内心の自由として、制限は許されないということである。とんでもない思想もそれを表沙汰にしたり(表現の自由との絡み)、行動に移したりしなければ制限されることはないのである。つまり、慰安婦少女像に見られるような作品の制作意図だけを以て、外形的に問題のない作品を制限することは、この問題との絡みで相当難しい、或いは問題があるという現実がある。

 更に、この両作品について抗議している人々は、片方の作品については、その「制作意図」や「背景」を問題視していながら、もう片方については、その外形的なことを問題視して、背景については考慮しないという、論理矛盾を引き起こしていることにも注意する必要がある。片方を問題視すれば、もう片方を問題視することは、本来出来ないのである。つまり彼らは「反日」であると彼らが思うことについては何でも制限したいのであり、その論理構成は無視してしまっているのだ。

歴史認識問題と表現(言論)の自由

 そしてもう1つ重要なことは、慰安婦少女像の背景でもある歴史認識問題と表現の自由の関係である。今回座り込みを行った河村市長は、「南京事件(虐殺)」虚構論者としても知られ、常々公的な場でも主張してきた。
 当然ながら南京事件については虚構論から犠牲者の数の大小など様々な議論があるが、多くのまともな歴史学者は、少なくとも南京で軍による大規模な不名誉行為があったことは認めている(保守的歴史家・学者として知られる秦郁彦ですら、4万人程度の虐殺があったとしている)。更に当時(戦後ではない)の軍部ですら南京で問題行動があったことについては明確に認めているし、責任者であった松井石根や従軍していた軍人記述による一次資料などからも、虚構論は明確に否定される。無論、亡くなった三笠宮も南京における軍の行為について明確に批判していた。犠牲者数の多寡やその理由については議論があるが、虚構論は事実関係においては論外と言って良い。

 慰安婦否定論者からすれば、歴史的に間違っている(朝鮮半島における日本軍の強制連行・徴発)ことは表現の自由の埒外(但し、河村については、「今回の展示は民間資本でやる分には好きにしろ」と言っているので、この点は留意しないといけない)や日本人に対するヘイトだと言う話になるのだろうが、この論理で行けば、河村たかしの公人としての主張もまた中国人に対するヘイトであり、表現(言論)の自由が制限されて然るべきだという話になる。
 しかしながら、河村に批判的な立場であれ、河村の発言を批判するのに「表現の自由の制限」論理で批判している主要な「リベラル・左派」はほとんど居ない(というか知らない)。彼らの主張は、この場合においては単なる歴史認識の事実論争であり、その論理は用いていないのだ(ここがヘイトスピーチ問題とは異なる)。
 慰安婦問題も歴史認識問題の一貫である以上、そこに表現の自由の制限を用いることは事態をおかしくすると言って良い。ここでも慰安婦少女像規制派(反対派ではない)は間違いを犯していると言える。

 ここまで見てきたように、あいちトリエンナーレでは、今の所問題となっているのは表現の自由や国家の関与の仕方であるが、そこには実は内心の自由や表現の自由と歴史認識問題議論のアプローチの仕方など、細かい他の論点が絡んで来ることに留意する必要がある。細かく見ていかないと、お互いに自分の都合の良い意見の応酬で終わる可能性が高い。

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