気持ちよくありたいけどありたくない

当たり前だけどね、表現というのは自分の中にあるものしか表現できない。そんな見知った事実に、未だに打ちのめされることがある。生まれてから享受されてきた経験の寡多をステータス化するのはナンセンスなことだと分かってはいるけれど、チョコレートパフェをおいしいと感じれるような甘ったるい人生を生きてきた責任なんてのをどうも感じてしまう。あったかい。布団に包まれながらこの文章を書いているけども、布団がこんなにあったかいなんて、感じて、いいのかな。バチは当たらないかな。鳥居とか神社を見るのも最近はより怖くなった。神さまはバチを与えないとかなんとかをどっかの知恵袋で見たけど、確証はない。つらい夜もあった。人生を終わらせたいと思うこともあった。だけど残酷だと思っていた過去は実はそれほど残酷では無かったのかもしれない。どこかの十八歳が書いた文章が忘れられない。検索しても出てこないような、いくつかいいねがついただけのブログだったけど、彼女の言葉を未だに忘れることができない。ふと図書館で手に取ったどんな本よりも、頭の奥あたりがひしひしと何かを受け取っている気がした。

高校生の頃、家の近くの青い橋の上で過ぎ去る車に轢かれてみようかとぼーっと眺めていたあのとき、あのときだって声も出せないくらい辛い子どもたちがきっと同じ街にもいたんだろう。人には役割があるのかな。わかんないけど、モデルを始めてある程度変われた僕は、どこかで死にたい人たちに何か届くものをつくる側なのかもしれない。偉そうですみません。それっぽっちの表現で、誰かに何か出来ることなんてたかが知れてます。けれど僕が与えられてきたように、何か与えられるものがあるんだったら、その人がいやじゃなくて、プラスに働くものがあるんだったら、与えたい。自己満でも自己防衛でもいいから、与えたい。大人になってね。僕も僕なりに頑張るので、子供のままでもいいから、きっと貴方も素敵な大人になってね。

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