これまで、これから part2〜現象編〜※再掲載

わたしにとって「生きる」ことはとても大切だった。高校生のとき色々苦悶していたある日「マインド・クエスト」という本に偶然手が伸びた。それから、ふと感じ、考えることがいかにこの上なく複雑ですごいことなのかに考えを巡らせた。思考意識があることが自分への最大の肯定である気がした。わたしが存在することで見える世界があるなら。わたしが見る世界でわたしが存在するから。これが、生きることを終えようとした一歩手前で、わたしを救ってくれた。その後も、自動的に見ていた(見せられていた)世界を止め、自分を少しずつ解放した。最初は虚言と自分のアイデンティティが真っ向に衝突しあい、すごく居心地が悪い状態になったけれど、違う世界があることに気がつくこと、そして葛藤の中で、自分の信念に向かって選択し、少しずつ新しい自分になっていくこと。新しい意味を体現していくこと。これができたのも、意識すること、理想を想像すること、選択すること、そして、その想起点でもあり、帰着点でもあるわたしが存在していたから。しかも、何も特別なことではなくて、ずっとそこにあったものだから。
そんなことをつらつら思ってきたわたしには、意識があること、実在することでできる最も難しいことのひとつとして、その思考自体を深く理解することは自然なことに思われた。それによってもうひとつ何か普遍なものに近づける気がした。興味が一向に拡散していく一方、自分のいのちの有限さを痛感する中で、何かひとつ極めるとしたら。これが分かれば、どこから来たか、どこへ行くのか行けるのかわかるかもしれないもの。思考している内容と思考をしているプロセスは線引きができるものという仮説のもと、純粋に思考自体に迫るのであれば、わたしたちの認識や知識方法への洞察がひどく必要になる。考えることを考えていることで、生きている実感がしたし、そのメタで再起的な挑戦に魅了された。思考内容は一段階の洞察で到達できるのだけど、思考を理解するには、意識する実体としての一面を持ちながら、見出した意味が何によって支えられているのかを考えることが必要になる。どうやって人間が思考するのか、秩序を見出すのか、世界に介在していくか知る過程は、いつかずっと遠いところで、認知にとっての「究極理論」、なぜわたしたちが存在するかという問いに繋がってくるのだと思う。それは普遍的な拠り所となる。そこで人間でいることの限界を知ることになるかもしれない、としても。
そんなことを思いながら、認知科学部をひとり大学で作ることになった(アメリカのリベラルアーツ学科ではindependent studiesという専攻を自分でデザインする制度があったりする)。珍しく、学問的な専門性ではなく、心理学・脳科学・哲学・言語学・コンピュータサイエンス(人工知能)・人類学などからなり、視点を掛け合わせ、知性を探究し、発展途上の分野でありトピックだからこそ、一番自分の野望に近いと思った。自分の存在にまだ疑問があった当初は、自由性が高い分野なら研究者として生き残れるのではないかということも思ったりした。そんなこんなで、いつか思考を理解するための勉強に尽力した。課外活動では研究に取り組み、一年生のときは、アイトラッキング装置を使い、カテゴリー学習をより最大化するための研究を実験者として手伝い、学会での発表に連れて行ってもらった。2年生で初めて脳科学の教授を説得して自主研究の企画を立ち上げ、クリエイティブな思考をしているときの人間の脳状態をEEGという機械で読み取り、脳科学的・心理学的にもそれが抽象的な思考と相似していることを成果としてまとめ、学会での発表の選考に通った(コロナで発表自体は中止になったのだけど)。3年生では、引き続き、カテゴリー学習の研究を手伝うため、初めてのウェブサイト・環境構築に苦戦したり、インディアナ大学から研究生に抜擢され、自主プロジェクトとして、AIモデルを使って、脳内で概念が合成されるときに、概念が持つ言語情報やイメージといった情報がどうやって使われるのかを企画・研究していたり(現在も進行中)。そして、3年目を終えて、昨年からスタンフォード大学から夏季研究生としてオファーがあり、コロナの状況次第ということもあったりして、今は待機していたり、ということがあった。
そんな感じでキャリアとしては上々だったのだけれど、ほんとうは精一杯だった。私的な部分では、存在すること・人と繋がることに苦戦し、色んな困難で気分が沈みまくり、とっても苦しい思いで勉強していた。研究をバリバリこなしている表面上の知性とは違って、わたしは真っ暗な部屋の隅で動けない。ほんとうのわたしはここにいる。だらだらと机上の知性と現在の意識とのギャップにもがき続けてようやく、周りからの後押しもあって、とりあえず半年、人生で少し立ち直り、自分の価値観や信念と、趣味も含めた包括的な人生を統合しなおす時間を設けることに決めた。


「僕は生きたいよ、だって生きているうちはたくさん体験できるから」

そんなことを恋人に言われ、わたしが高校生のとき、思考意識に救われたことを思い出した。だから今、現存する身体と思考意識に想いを巡らせてみた。わたしたちは身体を持って実在する。わたしたちを包み込んでいる世界や隣り合う他者に関与し、適合することで思考がかたち取られる。でも、環境に乗っ取られてしまうことはなく、立ち現われた環境を切り取っていく。そこに自由性があって、環境を区切ったり、整えたり、そしてその開示性を享受し、工夫して、自分が意図したものを作り出す。作ったものを共有したり、物理的にも精神的にも影響し合いながら、違う世界の体現者とも程度の違いはあれ関わり合っていく。そこには実在することは切っても切れない関係で、人生の流動さに素直になり、好奇心に誘われながら、そこで感じたものや考えたことを大切にしたい。自分がそこに身体を持って存在していたからこそできること、色々な世界に立ち、考えが繋がり、発展し、見る世界が変わっていくこと、をしたい。そして、わたしはそれになりたい。


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