これまで、これから part3〜未知編〜※再掲載
アートにふれると精神が自由になる。ずっと小さい頃から何か作ることが好きだったのもあった。ギャラリーで作品と対峙したとき、その空間、時間、雰囲気に触発されて、ふと感じたもの、考えたものに好奇心をそそられる。環境にすっぽり包まれたわたしたちが普段、色々なものと関わり合い、感じ考える世界の縮小版みたいで、それを外から眺める貴重な体験。言葉にならない曖昧な思考も肯定してもらえている気がした。そして、その世界は背後に壮大な想像の余地を残してくれる。自分の考えが至らない世界に、背筋がすっとする思いがすると同時に、わたしは安堵感を覚える。わたしたちを吸い込む広大な別世界。ブラックホールみたいに。そこは、内側が外側、外側が内側のような世界なのだろうか。自分の思考意識に身を置きながら、自分が見たものが全てではないことに救われていたのかもしれない。わたしが存在しながら存在しない世界が共存することに。わたしはずっと、存在することが不安だった。色んな感情があったけれど、「自分が存在しなくちゃいいのに」と思うことが本当に一番辛かった。自分が存在しない世界がどんどん大きくなっていた。
アメリカに留学に来て、人種やジェンダーに関する差別を知り、人権を蔑ろにする暴力に、存在するとされている世界に、歴史上、社会上、自分が入っていないことはどれほど苦しいことだろうか考えていた。そのほとんどは、権力や制度や常識といったものから作られた一方的な世界であって、当たり前のように現前してくるその世界は当たり前ではない。存在する・しないのアンバランスさは、アメリカでのコミュニティー間の分断や衝突にもあって、わかりわかられない現状に、どうすれば自分が存在しない他の世界に実在を通して気付けるのだろうか思いを巡らせた。
そんな社会からの圧力は認知科学を研究していたときにも感じていたもので、人間の知能という普遍的で、個人のアイデンティティや尊厳に関わるものだけあって、誰によってどう定義され、理論化されたのかは重要だった。それによって、人間像、人間の本質、そして未来をどう生きていくかが左右されるからだ。そんな想いを個人的に持ちながら、少しの間、心理学・認知科学のコミュニティに身を置いてみたのだけれど、自分の信念を任せられるものなのかという問いはずっと脳裏にあった。そして、遅かれ早かれ、人間の知能でどれだけ人間を知れるのかという問いを喚起する。
わたしは、本来の知性は、身体、感覚器、社会、文化、能力、言語、個人差などが複雑に絡み、感情的・社会的・知能的な多元性を持つもので、研究方法や定義に反映されるべきだと思う。でも現状は、研究分野の細分化が進み、例えば文化心理学は認知科学の中でも異端だし、そもそも、研究のほとんどが白人の大学生のデータから分かったものだったりする。感覚などスペクトラムの両サイドは異常値として切られる。まるで正常な知能が初めから存在しているかのように。多元性が認められないから、完全な多様性も存在しない。測ったものさしが一元的なものなら、理解されたものも一元的になる。そこには多様な知性のあり方が失われていると思う。箱の概念ですら、外と内を識別しない世界があるかもしれないのに。決定的なことを言えば、知能を定義している研究者だって個人にすぎない。他にも、研究対象を人間や霊長類に限定することの代償は何だろうか。そして、重要なことに、その研究方法やそれから生み出された知への知識は社会や権力の構図にどっぷり浸かっている。だから、クリエイティビティを研究しておきながら、どうしたらクリエイティブになれるかという問いにはちょっと懐疑的になる。それは、誰によって、誰にとってのクリエイティブなのか。
水平的な次元とは別に、垂直的な次元での違和感もある。研究するとは、理解するとはどういうことなのか(細分化、統合...etc?)という話にも繋がるかもしれないけれど、体現による、状況による認知を実験台に乗せられるのか。認知の生きられた感じをどうやって再現するのか。どうやってそれにメスを入れるのか。そもそも、人間の知能の極限の状態は実験室で起こるのか。言語、シンボル、テクノロジーはどこまでわたしたちの実態をあぶり出すのか。今までの自然科学のフレームで、知能は、心は測れるのか。哲学の流れを受けて、自然科学の皮を与えられた心理学は、コンピュータの台頭とともに、認知科学に派生して、知能を表象を計算する過程として捉えようとする動きになった。「何かすごそうで、わからないもの」はコンピュータと同位で説明されると仮定のもとに。そして、それを考えている人間の思考自体が本来カオスだとしたら、お手上げになりそうだ。連続的、非線形的でダイナミックな実態をどう観察し、構造に落とし込めるのか、そもそも落とし込めるものなのかは、発展途上の分野の性かもしれない。
そんな妄想を膨らませながら、日々の勉強や研究と向き合ってきたのだけれど、個人的な存続の危機とあいまって、認知科学は自分が存在しない世界の方へ追いやられている気がした。というのも、客観的に対象を研究しようとすることに精一杯になり、自分の思考から、自分の存在から抜け出す方法を考えていた。自分の思考意識と実在がない世界で闘っていた。そのうちにわたしは生きる意義を見失い、周りの支えがあって、思考意識を持つ実体として生きたいと思い直した。研究者もひとりの人間でいいのだ。そしてそもそも、思考の本質の半分はその思考を生きていることである気がして、きっとわたしは形を変えながら、それがどういうことであるのか知りたかったのだと思う。存在することと思考することは両義的なもので、生きられた思考をめいいっぱい享受することは、個人が存在する意味につながっているのかもしれない。遠い目で見れば、そんな点が繋がって大きな流れになり、人間が今まで築いてきた知識や思考の実態の一部になっていく。それで今度は何を知れるだろう。
そして、その自分が存在する世界はそれで終わりではなくて、多くの人や生物が意識のうちに存在しない世界には加担したくないと思う。どこに違う世界と繋がる余地があるのか。人類同士の衝突や支配、生命や宇宙への介入が進んでいく中で、自分の実在意識を超えて、知らないもの、知れないものとどう向き合い、関わっていくのか。さらに、言語、シンボル、そしてテクノロジーで知能が拡張されるとはどういうことか。わたしたちは「何かすごそうで、わからないもの」を垣間見ること、理解することはできるのか。そこには意味を超えたものが存在するのかどうか。わたしは、そんなものに意識を馳せ、わたしたちが今持っている思考をつなぎ留め、再起的に発展していく思考の中に身をおき、余白を開拓したい。思考で思考を塗り替えられる、思考自体を思考でゆうにかわす、難しくてもそこに可能性があると思う。存在する苦しさや分断という問題を、実用的な観点からのアプローチとは別に、未来につなげるもの。それは、3次元でもつれたひもを4次元で解こうとすることに近いのかもしれない。精神を発展させ、そして実在や意識に戻る。そして、未知なこと、普遍的なもの、実在することを巡る中で、ものごとのあり方・生き方を解放したい。どう生き、考え、知り、関わるのか。どう生きることを選択していくのか。その余白には高鳴る希望があるように。斬新さだけではなく、調和があるように。拠り所としての生の普遍性、未来を生きる希望、そして今をめいいっぱい生きること。わたしはそんな世界の中で何かを生み出したいと願う。ひとつの生命が、想像し、創造し、作り作られたもの。そして、自分のいない未知の世界に精一杯アンテナを張りたい。
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